当村の石高は『元禄郷帳・天保郷帳・旧高旧領帳』ともに一一七石八斗七升であった。この年貢は八五俵で、この内から名主給米など諸費用を差し引いて納入された。
弘化二年(一八四五)の村高は一一七石八斗七升で、「家数は十一軒、小栗又一の知行、多古村外五十一村組合のうち」であった(『香取郡誌』)。
面積・戸数・人口は、江戸時代の戸数一一戸(安永・文化・弘化の記録)、明治年間の戸数一〇戸(初年~四十二年の記録)、明治四年の人口四七人(内男二三・女二四)。
江戸時代末期から明治にかけての面積は
田 八町七反九畝一〇歩
畑 五町三反一畝一〇歩
宅地 七反三畝三歩
山林 一二町七反一畝三歩
墓地 三畝一〇歩
種井 一六歩
原野 三反歩
合計 二七町二反五畝歩
このようになっているが、現在(昭和五十九年十一月現在)の規模についてみれば次のとおりである。
宅地 八反九歩
田 一〇町三反七畝二〇歩
畑 七町六反七畝二一歩
山林 四町九反四畝八歩
原野 三畝九歩
その他 五町五反九畝一二歩
計 二九町四反二畝一九歩
世帯数 一四戸
人口 六九人 男二八人 女四一人
(世帯数と人口は昭和五十九年十月現在)
宅地・田・畑についてみれば、四町歩ほどの増加が見られるだけである。
村には共有の茅場があり、村人が順番に採取して屋根の葺替えをした。
また壱反四畝の宮田(社田)があり、かつては共同耕作によって収穫を得たが、後に村人に貸付けて年貢を徴収し、これを「おびしゃ米」や公租その他の費用に充てた。
往時、村の仁兵衛が長谷清水の流れを川戸堤に堰止めて溜池となし、水田を灌漑し村人は毎年「池そうじ」、「みおざらい」をしていたが、昭和四十三年に土地改良による用水施設がなされ、いまは昔日の面影はない。