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村の生いたち

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 いずれの村でもそうであるが、村の起源についてを明確に立証するものはほとんど現存せず、当村もまたその例外ではない。ただ、伝承としていまに伝わるものの一つに次のようなことがある。
 かつてこのあたりで戦いがあって多くの戦死者が出たが、これを葬ったのが集落北側の台地上にあった多数の塚だという。そして、このことを裏付けるかのように、金沢文庫文書(詳しくは通史参照)に「建武二、三年(一三三五~六)頃大原に軍勢を催し……」の一文がある。
 現在は一面の畑作地帯となり既にその跡を見ることはできないが、字大塚台二九九ノ七番地には一段と大きな塚が一基あって、その頂きには松の大木が聳えていたと語り継がれている。なお、字大塚台から字先上(せんがみ)にかけては一大古墳群があったといわれているところで、貞享二年(一六八五)作成の村絵図にも記載されている。また、字寺ノ後(てらノうしろ)墓地あたりは明治初期には陣城峠と呼ばれ、木戸(きど)の名は現在も字名として残っている。

村絵図(古墳群・大塚台)

 戦いの有無は別として、字大塚台・先上地域の古墳に見られるように、その当時すでに人々の生活があったことは事実である。そして人々は丘の間に深く入り込んだ湿地が水田化するにつれて、耕作の便利さから次第に水田近くの低地へ移り住んでいったと考えられよう。そして喜多区内の各旧村の鎮守社勧請を、慶長四~六年(一五九九~一六〇一)のころと伝えていることなどをみると、そのころに近世的村落共同体としての営みがなされていたことは疑う余地がないところである。