次に、いまに残された文書の中から、忘れられようとしていることがらの幾つかを取り上げて、先人の辿った足跡を見てみよう。
まず、貞享二年(一六八五)に起きた秣場の境界争いの問題がある。
秣場は、そこで刈り取った草から堆肥を作り、また燃料の供給源となり、その広狭は農業経営に大きく影響するものであった。この年に、中佐野村・東佐野村の二村が共謀して東台村地域を侵害したとして、東台村から右の二カ村が訴えられた問題であるが、詳しくは中佐野の項で述べる。
鷹匠人夫に関する文書
次は鷹匠人夫に関する問題である。鷹匠というのは、将軍家が鷹狩をするための鷹を飼育・訓練する役人であるが、この鷹の餌としての小鳥を飼育するため、当地方は小鳥を捕ることを禁止されており、鷹匠だけが小鳥捕獲に巡回して来ていた。
鷹匠が来ると、手伝いの人夫や捕えた小鳥を江戸まで運ぶ人夫、また宿泊の準備などに多くの人手を必要としたことから、普段何事もなく平穏に暮らしている村人にとってはきわめて迷惑な問題であり、これに係る割当人夫をどのようにして減らすかということが、村役人の苦労するところであったようである。
次に載せるのは、安永八年(一七七九)に多古村役人が鷹匠人夫の免除を願い出た書類であるが、多古村が人夫を免除されればその分の労力を近隣村々が負担することとなり、東佐野村としても重大な問題であり、免除されることを願う気持は同じものがあったのであろう、書類の写しを現在まで残していた。
安永八亥年十一月より
御鷹水夫役御免除願書一件
乍恐以書附奉願上候
一、松平豊前守領分下総国香取郡多古村惣代助右衛門申上候。当村之儀当時之御伝馬次駅場相成候得とも、往古者上総国武射郡加茂村より下総国松山村・大寺村・松崎村右三ケ村江道法三里程之所、往来人馬次間之宿ニ御座候所、寛文年中同国匝瑳郡海上郡之内椿海と申沼御開発ニ相成、其後元録(ママ)年中御縄入御新田ニ相成候。以後者別而御用多ニ而諸御武家様方御通行繁相成候而加茂村より多古村ニ宿次御先触廻り来り御伝馬御用並御泊り等も引請、却而駅馬之加茂村より事繁相勤候様ニ罷成候ニ付、先年御領主よりも当村町内へ問屋給として米三俵宛納目録ニ御記之上被下之問屋場相立来り候。尤外古来より之駅場者宿付之助郷村々有之候故多分人足之儀者古来駅場ニ無之、中興自然と駅場ニ相成候事故相定り候。助郷と申儀無之大概之義者当村計ニ而次立仕候。多分人足入用之節者向寄近村江人馬割申遣候得とも、是以町付之助郷と申ニも無之候ニ付、人馬間違御用弁間々御差支有之難義仕候儀ニ御座候。且又南北へ御通行被遊候御用之御方様も、加茂村通りより当村之方御手都合冝敷御座候故、是又格別之余慶之御用等相勤候得とも右人馬次計りニ而も手張り候。宿役引受罷在り人馬引足り不申御用弁御差支ニ相成難義至極仕候。依之此度奉願上候趣意者、御鷹御用ニ而御越し被遊候御方様、菱田村新井田村此二ケ村之内御止宿ニ而、御逗留中水夫人足並御立出之砌り御送り人馬右村より触来り相勤候所、加茂村之義者往古よりの駅場故右水夫役其外諸役共相遁罷在候得共、多古村之義者中興御用繁自然之外駅場同様ニ次立場ニ相成候故、諸役共不相遁是迠数年来無是悲重役相勤罷在候。殊ニ当村者一射天水場同前之村柄ニ而、例年共両都合相待仕付仕り故向違等ニ相成少々宛損毛者年々之義候、其上去寅卯両年旱魃ニ而田畑皆損同前之仕合、其後迚も無難之年者稀ニ而御領主より御引方被下之候仕合ニ御座候得共、追々困窮募り候所前文申上候人馬次立役引請罷在候上、猶又水夫役相勤殊ニ累年重ニ七八月頃之御鷹御用繁御座候而、猶又其頃者御野馬牧捕有之旁難渋仕候所、近年困窮弥増ニ而前々より人馬無数引足り不申候間、重々役相勤難行立難儀至極仕候。何卒御鷹水夫役人足当村高八百五拾石之分以来御止宿より外手明村々江割掛、加茂村同様ニ水夫役御差除被成下候様ニ仕度奉願上候。呉々右申上候通り御伝馬御用計ニ而も手張候御役引請罷在候間、右高役外手明村も御座候得者、御吟味之上何卒御操替ニも被成下、当町之義者以来水夫役御差除被下置、御伝馬御用者勿論其外諸往来宿役無恙相勤候様仕度、則御鷹御用ニ而御越被成候御場所其外往来筋並水夫役不差出手明村々古記絵図面相添奉差上候間、御吟味之上幾重ニも御是悲奉願上候。以上
安永八年亥ノ十一月日
松平豊前守領分
下総国香取郡多古村
願人惣代 助右衛門
御奉行所様
乍恐以追訴奉願上候
一、下総国香取郡多胡村助右衛門申上候。御鷹御用之節水夫人足外手明村も御座候ニ付当村者御差除被下置、委細書付を以去亥十一月中御願申上候。然処当正月廿六日出火仕、惣家数弐百五拾軒余之内百廿軒程類焼仕、殊ニ風烈敷候ニ付居宅者勿論物置等迠不残焼失一同当惑仕候。依之奉願上候通り当村者近来駅場ニ相成村付、助郷ト申茂無御座重々村方計ニ而諸継立仕人夫引足り不申難渋仕候ニ付、水夫役御差除キ奉願上候所、右申上候通り大家数類焼仕当時之小家掛ニも難及、引請罷在候継立之義も当時之射ニ而者相勤不申、殊ニ難行立難義至極仕候間、弥以当村分水夫役御吟味之上外手明村江御操替被成下、当村者以来御差除被成下置、何度御慈悲之御勘弁御願申上呉候様村方一同相歎候ニ付、猶又追訴を以奉願上候。何分手明村々被召出御吟味之上、願之通り、御操替ニ被成下候ハヾ、当村者勿論末々迠相助り、偏ニ御救と難有仕合ニ奉存候。以上
安永九年子正月
松平豊前守領分
下総国香取郡
多古村惣代
名主 助右衛門
御奉行所様
差上申一札之事
下総国香取郡多古村銚子並小見川通り往還継場役、其外東金佐倉へ継合も相勤、其上隣郷佐倉牧野馬捕旁人足も指出候上、夏御鷹御捉飼場組合ニ入、水夫賄人足指出候段難成ニ付、最寄之内代村被仰付、御捉飼場水夫賄人足御免除奉願上候ニ付再応御吟味被遂候所、御免除之分代村被仰付候得者、自除之障り相成難、然共銚子並小見川通り其外東金佐倉江之往還継場相勤、御鷹捉飼場水夫賄人足差出候段難儀之由、無故義ニも無之間、已来御捉飼場水夫賄人足御差免被遊候ニ付、継場役野馬捕方人足者是迠之通り無滞差出、右御免除被遊候多古村之分、水夫賄人足者残り組合村々ニ而余荷相勤可申、且菱田村新井両村隔年ニ御鷹方宿相勤度之由、新規之義ニ付組合村々願之趣不及御沙汰ニ候旨被仰渡、一同承知奉畏候。若亦相背候ハヾ重科可被仰付候。依而御請証文奉差上候処如件
安永十丑年(一七八一)二月
松平豊前守領分
下総国香取郡
多古村惣代
名主 助右衛門
松平因幡守知行所
本間重右衛門
同国同郡飯笹村
松平豊前守領分
同国同郡牛尾村
同人 領分
松平源六郎知行
同国同郡船越村
松平豊前守領分
同国同郡井野村
安藤治右衛門知行
同国同郡 嶋村
安藤治右衛門
同国同郡東臺村
内藤熊太郎知行所
石谷大助
神尾弥五郎
山角四郎左右衛門
曲渕甲斐守与力給所
同国同郡間倉村
堀 三六郎知行所
石谷大助
神尾弥五郎
山角四郎左右衛門
佐野右兵衛尉知行所
同国同郡大原村
小栗又市知行所
同国同郡五反田村
稲垣藤左衛門御代官所
大澤勘解由知行
同国同郡千田村
有馬伊織知行所
松平清九郎
中根日向守
同国同郡 林村
松平豊前守領分
安藤治右衛門知行所
松平鉄五郎
神保五郎兵衛
本間十右衛門
同国同郡水戸村
石成村
稲垣藤左右衛門御代官所
上総国武射郡牛熊村
稲垣藤左右衛門御代官所
内藤熊太郎
牧野大隅守与力給所
同国同郡中佐野村
東佐野村
初鹿野傳衛門知行所
初鹿野治郎右衛門
三木十兵衛
同国同郡染井村
戸塚左門
疋田喜太郎
宮重忠右衛門
同国同郡木戸臺村
神尾若狭守知行所
布施孫兵衛
同国同郡小堤村
永田四郎三良知行所
平岩亀五良
同国同郡曽根村
取立村
永井監物知行処
同国同郡姥山村
同国同郡於幾村
永田小左右衛門知行所
同国同郡寺方村
市場村
岡部主税知行所
同国同郡古川村
長倉村
清水 領分
山田主計知行所
紅林甚三郎
同国同郡八田村
松平豊前守領分
同国同郡高谷村
殿部田村
永井監物知行所
永井直次郎
同国同郡谷臺村
仙石弥兵衛知行所
永井監物
小笠原兵馬
同国同郡大臺村
新庄与惣右衛門知行所
同国同郡遠山村
米津出羽守領分
松平庄右衛門知行所
同国同郡蕪木村
山内式部 領分
同国同郡小池村
松平豊前守領分
永田弥左右衛門知行処
小栗五左右衛門
三枝平六郎
山口藤左右衛門
同国同郡山中村
坪内仙太郎知行所
同国同郡住母家村
小田切土佐守知行所
小栗又市知行所
同国同郡稲葉村
大河内善兵衛知行所
同国同郡高田村
松平豊前守領分
松平鉄三良知行処
同国同郡 境村
朝倉村
石谷大助知行所
内藤熊太郎
河合久米之助
神尾弥五郎
山角四郎左右衛門
太田冨吉
同国同郡下吹入村
大道寺小膳知行所
同国同郡上吹入村
青木与左右衛門知行所
永井直治郎
同国同郡小原子村
松平豊前守領分
同国同郡飯櫃村
坂志岡村
今大路兵部少輔知行処
伊丹兵部
太田嘉兵衛
朝倉左京
同国同郡山田村
米津出羽守領分
同国同郡白升村
堀 喜内知行処
本田金之助
山口房之助
永井内蔵之助
青木市郎兵衛
興津岩次郎
同国同郡岩山村
太田嘉兵衛知行処
大道寺内蔵之助
酒井作左右衛門知行
同国同郡芝山村
松平豊前守領分
同国同郡宮崎村
同国同郡中臺村
右村々
名主
組頭
百性代
惣代
於幾村
名主 儀右衛門
岩山村
名主 八郎兵衛
下吹入村
名主 仙右衛門煩ニ付
代 七郎右衛門
林村
名主 藤右衛門
大岡城之助知行所
菱田村
松平嘉兵衛
石谷栄蔵
村上弥市郎
新井田村
逸見八右衛門
右両村
名主 惣代
組頭 菱田村
百性代 元右衛門
松平豊前守領分
下総国香取郡
多古村惣代
名主 助右衛門
御奉行所
差上申一札之事
夏御鷹御捉飼組合之内、下総国香取郡多古村より、銚子並小見川通り其外東金佐倉等之継場役相勤候故を以、右御捉飼場水夫賄人足御免除被仰付候所、御鷹匠様方御伝馬之儀者是迠之通り多胡村江触当可申旨掛合候所、是又御免除申之、且御吟味中之雑用之義組合村々割付可申哉、私共弐ケ村別段可差出哉之段奉伺候所、御鷹匠様方御伝馬之義も多古村者外組合村々江割合触当可申、雑用割合之義者、別段可申立者格別是迠可有之義得と申談、実ニ不相済候ハヾ、別段ニ可申立者格別御吟味外之義ニ付不被及御沙汰ニ旨被仰渡奉畏候。若相背候ハヾ御科可被仰付候。仍而御請証文差上申候所如件
安永十年丑二月
上総国武射郡
菱田村
新井田村
両村惣代
大岡城之助知行
菱田村名主 元右衛門
松平豊前守領分
下総国香取郡
多古村 助右衛門
御奉行所
このようにして多古村は、駅場として銚子・小見川・東金・佐倉方面への武家の旅行者に対する馬または人足による荷物搬送が多くなったことを理由に、御鷹餌捉義務人足は免除され、その分の人足割当てを、菱田村と新井田村が責任をもつことになったようであるが、負担の増える村々では大きな問題となったことであろう。