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村のすがた

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 栗山川の支流多古橋川が北上する西側に、舌状の丘陵地が続いている。すなわち高谷川と多古橋川に囲まれた地帯で、その丘陵の東端にそれぞれの集落を形成している。中佐野はそのほぼ中ほどに位置して、北に東台、南に五反田、西に東佐野があり、東には染井に続く水田が開けている。
 行政区画上は多古町大字喜多に含まれ、通称は中佐野と呼ばれているが、この呼称は明治以前の旧村名でもある。
 村の現況は、昭和五十九年十一月現在で次のようになっている。
 
  宅地  四町二反歩
  田   二三町二反一三歩
  畑   一一町二反五畝五歩
  山林  九町七畝二三歩
  原野  二反二畝一歩
  池沼  一反一六歩
  その他 二町二反七畝二五歩
   計  五〇町三反三畝二三歩
  世帯数 四八戸
  人口  二一六人 男一〇三人 女一一三人
      (世帯数と人口は昭和五十九年十月現在)
 
 右の資料と対比すべく古い「水帳」を調査したが、面積を記した台帳はなく、古い台帳はすべて「高名寄帳」のみで、すべての田畑は米換算の推定生産高で表記されている。明治九年三月、関渉人飯田嘉右衛門・同佐久間啓助・用掛松本小三郎の三人が責任者となって千葉県令柴原和へ報告した文書が、中佐野村の面積が表示された最も古い公文書であり、徳川時代とあまり変わらないものと思われる。その文書は次のとおりである。
 
  水田  二三町三反三畝二九歩
  畑   六町二反七畝一七歩
  宅地  二町一反三畝〇七歩
  砂押        二八歩
     外
  一、山 七町四反八畝一二歩
  一、開墾畑 一町九反九畝歩
  一、神社壱カ所 此坪四五坪
  一、墓地三カ所 此坪一四六坪
  一、制札場       三坪
 
 江戸時代の人口などについては、天保八年(一八三七)十二代将軍家慶が家斉から政権を移譲された際、民状視察使によるいわゆる大巡見なるものを実施したが、同九年(一八三八)に当地方を巡視したときに提出された文書に次のように記されている。
 
          覚
  一、高 八拾壱石      堀金十郎知行所
     下総国香取郡中佐野村
                 名主 藤兵衛
  一、高五拾三石三斗弐升   石谷友之助知行所
                 名主 政右衛門
  一、高三拾五石五斗三升八合 神尾山城守知行所
                 名主 与左衛門
  一、高三拾五石五斗三升八合 山角磯之助知行所
                 名主 小兵衛
  一、高三拾五石五斗三升八合 内藤重郎兵衛知行所
                 名主 清兵衛
  一、高七拾壱石七升七合   筒井紀伊守組与力給知
                 名主 三木右衛門
  惣高〆 三百拾弐石弐升七合
   新田地 無御座候
   御朱印地 無御座候
   御除地 無御座候
   高札場 六尺四方 堀金十郎支配 壱ケ所
   家数  弐拾四軒
   人別 九拾四人之内 男四十六人 女四十八人
   法花宗中村日本寺末妙道寺 壱ケ寺
   右之通り相違無御座候 以上
                               中佐野村
     天保九年戌五月二日
      安藤治右衛門様
         御用人中様
      馬場大助様
         御用人中様
      内藤源助様
         御用人中様
 
 この資料で見るかぎり、徳川時代と現在でさほど耕作地の増減はない。これは他村と比較して珍しいことで、水田ではわずかに一反歩余、畑で五町歩ほどしか増加が見られない。なお、秣場であった天領の三社神社周辺の草刈場は元治元年(一八六四)に開拓されている。
 また世帯・人口についてみるとき、ほぼ二倍の伸びを示しているが、それは明治以後の改善された出産制度と、早くから開拓が進められた事情を示す証しではなかろうか。