中佐野村の起源についてその詳細を述べるための史料は、現在のところそれを系統的に整えることは不可能である。他の多くの村々とそう大きな相違があるとはもちろん思えないが、おそらく荘園時代中期ごろから戦国時代あたりまでにぽつぽつと人が集まって現在地に村落らしきものが形成されて来たのではないかと思われる。
隣村大原に加藤兵庫守が在城していたのが久安年中(一一四五~五〇)といわれ(飯笹瀧門寺縁起木版)、すでに千田庄原郷と呼ばれていたと思われる時代で、当村にも大原城の出城(でじろ)があったと伝承されている。このころを含めて確たる史料は何もなく、徳川時代に入った貞享二年(一六八五)に作られた詳細な『村絵図』が現在に伝わっているのみである。それと享保元年(一七一六)ごろから明治初期に至るまでの各種のできごとを記した『年中行事』と表記した文書が残されているので、この二つを手掛りとして中佐野の歴史をたどることにする。
貞享二年にどのような理由から『村絵図』が作られたのかについては後段で述べるが、先ず『年中行事』の内容を各所に引用しながら筆をすすめる。
村絵図を開くと、現在の集落周辺台地の字妙見前・羽黒台・大谷台・並木の地域一帯におびただしい古墳群が見られ、そのなかで字並木地帯には一〇〇基に余る古墳が集まっていることがわかる。そして一きわ大きく描かれた古墳の上には松の大木まで書き添えられている。
各字(あざ)ごとの古墳が未調査である現在、あくまで推測の域を出ないが、井野・飯笹古墳群調査(詳しくは昭和五四年「井野・飯笹遺跡発掘調査会」の報告書に)の実績があることからみて、稲の伝播、水田、畑など農耕地の開拓との関係とともにその時代の住民と現在の住民とは深いつながりのあることがわかる。
これらのことから、中佐野は台地からだんだん現在のところに移り住んで来た集落であり、荘園時代には千田庄原郷に属する一村として立派に形成され、それが伝承的なものであるにせよ大原城の出城的役割を担うだけの集落として発展していったもののように思われる。そして『年中行事』が綴られ始めた享保元年ごろになると、一村として独立した村落共同体の姿は明確になるのである。