ビューア該当ページ

村の支配者

636 ~ 641 / 1100ページ
 旗本六家による統治
 人が集まって村落を形成すれば、必ずそのなかから指導的人物が出て生活の秩序を作り出していくということは、いつの時代にも習性的に行われて来たことである。そして力のある者はいくつもの村落を支配し、その勢力の伸長を図ろうとする願望は現在に通ずるものである。
 この村の属する原郷の長(おさ)があり、その上に千田庄の長があり、またその上に二重三重の長があって国全体の長があったわけであるが、中世期ごろまで中佐野村を支配した人物としては、前記の大原城主加藤兵庫守のほかは見られない。なお加藤兵庫守については地域史編大原の項で述べることにする。それ以降、徳川時代に入るまでの資料は消滅してしまっているが、以下、前掲の『年中行事』の一節に名前の上っている旗本の各家について述べてみる。
 中佐野村は六給地として細かく分割されて約三〇〇年間統治された。そのため村の内情は他村と比べ当然ながら複雑化せざるを得なかったようである。
 堀氏 宗本家は足利以来の武士で、尾張国(愛知県)奥田に住んでいたことから住居地名を姓としたが、その後藤原、堀と変えた。後に、越後国(新潟県)村上城主十万石堀丹後守直寄から分家して九千五百石を領した堀式部少輔直之の二男喜内直政が、元和七年(一六二一)はじめて秀忠に拝謁し、この年、家光に付属せられて御小性となり、上総国武射・下総国香取・常陸国真壁三郡の内において三千石の地を賜わったが、このときから村の一部を堀家が支配するようになったものである。
 以後は親戚森家のお家騒動に関連して逼塞を命ぜられた時代などもあったが、御小性・御使番などを勤めて明治まで引続き村を支配した。明治初年の最後の当主は貞之助と名乗った。香取郡内での知行地はほかに、津富浦・松子・前林の村々であった。
 石谷(いしがや)氏 間倉村も知行地であったため間倉の項で述べてあるが、遠江国(愛知県)から出た徳川家譜代の旗本で総高千百石。当地の支配は寛永十年(一六三三)石谷友之助清正の代から始まったと思われる。明治最後の当主は鉄之助といった。
 神尾(かんお)氏 間倉村も知行地であったので同家についても間倉の項で触れているが、徳川家康の側室阿茶局を祖先とする旗本で総高千七百石。村の支配は寛文二年(一六六二)備前守元清のときからである。明治最後の当主は市左衛門という。
 山角(やまかど)氏 間倉村も知行地であったので間倉の項で触れてあるが、山城国(京都)から出て、古くは小田原北条家に仕えた旗本であり、総高六百石。村の支配は寛永四年(一六二七)藤兵衛勝成の代から始まったものと思われる。明治最後の当主は磯之助という。
 内藤氏 間倉村も同家の知行地であったため間倉の項で述べてあるが、若狭国(福井県)から出た徳川譜代の旗本で総高三百石であった。村の支配は慶長十九年(一六一四)伝左衛門長教の時代から始まった。明治最後の当主は分家の彦次郎である。
 筒井氏 与力給知とは江戸町奉行所に所属する南北両奉行所あわせて五〇人の与力給与に充てるための知行地で、一人当たりは二百石であったというが、この給知分七十一石七升七合の年貢受取人はその時々の町奉行であり、村に残っている皆済目録にはその受取人として南町奉行筒井紀伊守政憲の名が記されている。
 この筒井家は織田・豊臣家の家臣であったが、藤六郎順斉が文禄元年(一五九二)から徳川家に仕え、家康の妹市場姫を妻とした。二千二百石の旗本であり、右の政憲は文政四年(一八二一)から天保十二年(一八四一)まで江戸南町奉行であった。
 ここで、右に記した六名の旗本は年貢をどのくらい徴収していたかということであるが、そのことを証する徳川時代の資料は発見されなかった。しかし徳川期のままの態勢ですべての行政が行われていた明治四年の『皆済目録』があるので次に載せる。
 またこれ以前のことであるが、各旗本家の下に命ぜられていたときの六名の名主の名前が、小野田与惣兵衛家の明治元年十月からの日記に記されていたので、併せて原文のまま載せる。
 
    辛未(明治四年)租税皆済目録
 高三百拾弐石壱升弐合                       下総国香取郡
                                    中佐野村
一、米八拾三石壱升六合    正租
  計立八拾七石七斗六升
    米六拾八石五斗三升九合
    計立七拾弐石四斗五升六合
     米三拾九石弐斗   正納
  内
     米三拾三石弐斗五升六合 石代
     代永六拾弐貫四百九文七分
   米拾四石四斗七升七合  畑米石代
     代永六拾弐貫四百九文七分
一、米 弐石三斗七升弐合 口米
  計立弐石五斗八合
      米壱石九斗五升八合 石代
      計立弐石七升
  内   代永八貫九百三拾六文
      米四斗壱升四合  畑米石代
      計立四斗三升八合
      代永壱貫七百八拾六文弐分
  米三拾九石弐斗
   永弐百拾六貫六百九拾四文七分
    右払
  米弐石七斗九升壱合   運賃米石代渡
   代永九貫六百弐拾弐文三分
   米三拾九石弐斗
 納合
   永弐百八貫百九拾四文七分
 
『小野田家日記』
 明治二年五月二十二日 雨ふり北風
 村内是迠六給之処 御一新ニ付壱給ニ被成候事 入札之取究メ則其所組頭役之高札ニ相成 無拠相勤訳ニ相成諸帳面六給共今日請取
   落札     組頭 与惣兵衛
          什長 嘉右衛門
          〃  藤左衛門
          伍長 次右衛門
          〃  小兵衛
   元山角給名主   新五右衛門
   元神尾給名主   宗庵
   元石ケ谷給名主  嘉左衛門
   元堀給名主    与惣兵衛
   元内藤給名主   又右衛門
   元町与力給名主  嘉右衛門
   〆六給