ここに、宗旨が公許されてから字向山の二カ所を東台の字妙見前に移したというのは表向きのことで、受派の日蓮宗を装っていながら内実は不受不施派であったため、葬式に当たっては日蓮宗の僧侶を頼んで埋葬するものの、夜になってから遺骸を掘り出して秘かに東台墓地に改葬し、不受不施の隠れ僧侶によって別に回向したという。
墓石の建っている墓地は仮りのものであり、印しのない東台妙見前の墓こそ祖先累代のほんとうの墓であるとしていたからこそ、明治になって公許されたときには何の抵抗もなく平穏裡に墓地の移転がなされたのであろう。
さらに不受不施派に対して徳川幕府がいかにきびしい弾圧を加えたかを『年中行事』は詳しく記している。このことについては説明に代えて日記を原文のまま掲げることにする。
中佐野村文書による寛政法難の一節
一、寛政六年十月(一七九四)朔日
御公義様為御用 近村不受不施之僧共被召捕候 但シ御下リ被成候御役人様名前左之通り
多古本宿名主清兵衛ニ御止宿
大貫治左衛門様手代原善右衛門、同人手代宮下順蔵、関東郡代様附大嶋友三郎、御小人目附荒井源兵衛、御小人目附大橋善四郎、関東郡代附御普請役荒井平吉郎
右十月朔日玉作村隠居大屋被召捕 其後隠居被召捕ニ而大家縄御免
四日当村江御入来信敬被召捕候
三日嶋村・林村御入来不残被召捕候
九月晦日頃夜中沢村飯塚村江御入来
十月十日囚籠九ツ但シ出家斗江戸御勘定奉行曲渕甲斐守様へ指出ス
同十六日囚籠六ツ同御指出ニ成、内俗壱人玉作村与左衛門
一、十月十九日玉作村御差出シ大家与右衛門 武左衛門入牢被仰付、又右衛門手鎖、沢村同日大家甚五左衛門 武八両人入牢、同廿日嶋村長左衛門 伊右衛門入牢、組頭市郎兵衛手鎖、廿一日飯塚村源兵衛 甚右衛門手鎖、同廿六日嶋村又右衛門 庄左衛門 東台内蔵右衛門 玉造村伝兵衛右四人入牢被仰付候
中佐野久兵衛・玉作半兵衛嶋村六兵衛三人者宿御預り被仰付候
一、十一月廿七日出家方御裁許相済
出生玉作 霊鷲院 玉作より出ル
〃 吉田 信能院 同村より出
〃 佐倉 是好院 同村より出
〃 玉作 見寿院 同村より出
〃 江戸 友善院 西沢より出
〃 上方 慈円院 本沢より出
〃 嶋 本性院 飯塚より出
〃 越後 長遠院 同村より出
〃 中村 鷲本院 嶋村より出ル
〃 江戸 鏡心院 同村より出ル
〃 中佐野信敬院 佐野より出
〃 嶋 恵賢院 東台より出
〃 江戸 蓮性院 林村より出
〃 ハンヤ心見院 同村より出
右拾四人衆 十一月廿七日迠拾人牢死いたし候 残四人御存命ニ而御裁許被仰渡遠島被仰付候
一、俗方五ケ村入牢人之内、林村名主勘兵衛、嶋村庄左衛門、玉造伝兵衛、与右衛門、沢村甚五左衛門、東台村内蔵右衛門、玉造村無宿与左衛門右七人出牢之上病死仕候
(中略)
差上申一札之事
一、下総国村々百性共地面ニ罷在候不受不施宗派相持候出家共 再応御吟味之上左之通り被仰付候
一、鏡心院日妙義 不請(ママ)不施御制禁並弁乍罷在相持霊鷲院戒弟ニ成リ 殊宗派御免有之候様御度願書差出シ 剰此度改宗可仕存寄無之申立候段 旁不届ニ付遠島被仰付候
一、見寿院守玄 本正院俊静儀 不受不施宗派者祖師日蓮之本意と心得候とも 御制禁之儀乍弁罷在銘々右宗派相持候出家ともよ里改受戒仕旨申立候始末 旁不届ニ付遠島被仰付候
一、恵賢義幼年より不受不施宗派相持候僧之弟子ニ成リ出家仕 是迠右宗派相持内信心仕罷在候得共 御吟味之上他宗ニ者いたし可(か)たく 日蓮宗之内ニ而改派可仕旨申立候段 右申候ハ難御取用 御制禁之儀不弁右宗派相持 他宗ニ者相成かたく旨申立候始末 旁不届ニ付遠島被仰付候
一、玉作村又右衛門地面ニ罷在候霊鷲院義 不受不施ハ祖師日蓮之本意と心得候とも 御制禁之儀弁乍罷在右宗派相持日 (英)戒弟ニ罷成リ 殊ニ日妙 友善ニも授戒いたし遺候段恐入里申候得共 今更改宗難仕旨申立候始末 旁不届ニ付存命ニ候ハヽ遠島可被仰付候処 病死仕候
一、西沢村武八地面ニ罷在候友善義 不受不施御制禁之義乍弁罷在右宗派相持霊鷲院戒弟成リ 殊右宗派御免有之様可仕存寄無之旨申立候段不届ニ付 存命ニ候ハヽ遠島可被仰付処 病死仕候
一、玉作伝兵衛地面ニ罷在候是好院 嶋村伊右衛門方ニ罷在候鷲本院義 不請不施宗派ハ祖師日蓮之本意与(と)心得候とも 御制禁之義弁乍罷在右宗派相持候出家より改受戒いたし 剰改宗可仕存寄無之旨申立候得共 旁不届ニ付存命候ハハ三人共遠島可被仰付処 病死仕候
一、本沢村甚五左衛門方ニ罷在候慈円院 飯塚村伝左衛門地面ニ罷在候潮音院 林村法林寺院居心見院 同村藤右衛門後家か袮地面ニ罷在候蓮性院 佐野村久兵衛方ニ罷在候信敬義 不受不施祖師日蓮之本意と心得候とも 御制禁之儀弁乍罷在右宗派相持 殊ニ改宗可仕存寄無之旨申立候段不届ニ付 存命ニ候ハヽ五人共遠島可被仰付処 病死仕候
右被仰渡候趣一同承知奉畏候 依之御請証文差上申候 如件
前書心見院日迅御仕置之儀 拙僧義も罷出奉畏候 依之奥書印形差上申候
江戸谷中
端林寺 印
寛政六歳寅(一七九四)十一月廿七日
天保十壱年(一八四〇)五月廿八日
八州御取締中山誠市郎様
多古村江御出役ニ付村々御呼出シ之儀ハ 不受不施宗門一条ニ付村中家別名前改メ 壱人別多古浜田屋善兵衛方江男女共役人差添請切ニ相勤メ御役所江御呼出し之上 御糺書銘々宗門之御地頭所役名迠差上候段 左ニ控置事也
乍恐御糺ニ付書付以奉申上候
堀金重郎知行所下総国香取郡中佐野村百姓新右衛門女房せ以 同小兵衛 太兵衛 与左衛門 伊兵衛 名主与惣兵衛 山角磯之助知行所同村百姓清左衛門女房げん 左内母 女房やす 石谷友之助知行所百姓九右衛門 同茂左衛門 名主政右衛門 内藤十郎兵衛知行所名主清兵衛 組頭幸左衛門 神尾山城守知行所百姓医師梅英 筒井紀伊守組与力給知百姓善兵衛 名主三木右衛門一同奉申上候
私共義御制禁之不受不施之伝法ヲ受相持候哉之旨御礼被遊候 此段新衛門女房せ以 清左衛門女房げん 権右衛門 太兵衛 伊兵衛 梅英 茂左衛門 左内母や寿義 代々日蓮宗ニ而寺者村内妙道寺旦那ニ相違無御座候 然所同国同郡嶋村三郎左衛門ト兼而存知ハ候者 年月不覚 同人申聞候者 摂州東高津村恵秀院日寛と申法花経之行者有之 此上人経力厚徳ニ預リ時々現世味(ママ)来共安業実ニ難有御忍徳候事ニ付 先祖菩提 先之 祝物として 候様可致旨相進メ且顧有之を一途ニ相心得 去ル酉年中迠者銭弐拾四文 三拾弐文ヅヽ右三郎左衛門江燈明せん(銭)として送る筈ニ候様頼遣し寄依仕居候得者 伝法を受次又ハ余人江相進メ候義ハ決而無御座候
今般御吟味受候而者可申立様も無御座奉恐入候 御利害之趣承伏仕 以後急度相止メ決而携申間敷候 何卒御慈悲之御沙汰 偏ニ奉願上候
一、三木右衛門 小兵衛 清兵衛 幸左衛門 善兵衛 九右衛門 与惣兵衛 政右衛門義 前同宗同寺旦那ニ無御座 然所私共儀是迠宗門ニ携候儀無御座 親共存命中寄依いたし候義ニも御座可有哉 私共ニおいてハ私共毛度覚無御座候
一、蔵右衛門 や寿 長衛門 勘兵衛 太右衛門 庄右衛門 庄兵衛 茂右衛門 善左衛門 仁兵衛 惣兵衛 兵七 小右衛門 嘉兵衛 勘之丞 市左衛門 佐五兵衛 惣左衛門 平兵衛 吉(ママ) 勘左衛門 藤右衛門 喜兵衛 新右衛門 藤左衛門 半兵衛 右名前之もの村内ニ壱人も無御座候 右御糺ニ付相違之儀不申上候 因玆連印書付以奉申上候 以上
子五月
堀金十郎知行所
下総国香取郡中佐野村
百姓 新右衛門
女房 せ以
小兵衛
太兵衛
与左衛門
伊兵衛
名主 与惣兵衛
山角磯之助知行所
同国同郡同村
百姓清左衛門女房
げん
同 佐内
母 や寿
石谷友之助知行所
同国同郡同村
百姓 九右衛門
同 茂左衛門
名主 政右衛門
内藤重郎兵衛知行所
同国同村
名主 清兵衛
組頭 幸左衛門
神尾山城守知行所
同国同村
百姓医師 梅英
筒井紀伊守与力給知
同国同村
名主 三木右衛門
百姓 善兵衛
同 権右衛門
関東御取締出役
中山誠一郎様
一、同天保十壱(一八四〇)六月廿三日八ツ時
御寺社奉行 松平伊賀守様ゟ(より)村内拾人之もの江御呼出し差紙頂戴いたし 村中惣代而堀金十郎百姓太兵衛 石谷友之助百姓茂左衛門 右総代外差添名主政右衛門 与力給三木右衛門 同月廿七日出立ニ而同廿八日着いたし 同廿九日御奉行所様江着当いたし候 其後寺院ニ而村方惣代同七月九日差紙ニ而十日五ツ半時一同村々寺院迠罷出候儀 先達而多古村江御出役之砌り御調之通り被仰聞 右請書奉差上一先帰村被仰付 村々一同七月十二日十四日迠不残帰村候事
多古御出役江村役人ゟ(より)差出し候一札之下書控
乍恐以書付奉申上候
堀金十郎知行所中左野村
百姓 与左衛門
兵七
儀兵衛
新右衛門
女房せ以
石谷友之助知行所同村
百姓 茂左衛門
与力給知百姓 権右衛門
山角磯之助知行所
百姓 清左衛門
女房 げん
佐内
母 やす
神尾山城守知行所
百姓医師 梅英
御禁制之不受不施宗門ニ帰依致し 燈明料として少々宛同国同郡嶋村三郎右衛門江相届候段 今般御糺ニ付始而承知仕奉驚入候
私共一同宗門改方不行届段御察当請候而者 一言申立様無御座候 奉恐入候 猶村内精々穿鑿仕以後携不申様可仕候間 何卒格別之御慈悲御勘弁之御取斗偏ニ奉願上候
右御糺ニ付相違之儀不申上候
子五月
関東御出役御取締出役
中山誠一郎様
以上が、不受不施派の僧侶と信徒に加えられた弾圧の事実を、そこに住む村びと自身が記した記録の一部である。この弾圧からどのようにして逃れようかと策を凝らした苦心の様子が随所に見られ、朴訥な日記だけに、読む者の心に訴えるものがある。
前段の寛政六年から始まる一連の弾圧を、宗門史は多古法難と規定している。検索開始に当たって村々の名主に信者名を書き出させ、それを手掛かりにして弾圧が進められたといわれている。後段の天保十一年からの弾圧は全国的規模で行われ、このときも幕府は、公許を検討する資料にすると称して信者・僧侶名を書いて差出させた。それを信じて差出したためにその名簿を根拠として徹底的に弾圧が押し進められた。この名簿を後年「油科帳」と呼んで忌み呪ったという。