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妙道寺跡

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 前にも述べたように、内信者として固く不受不施を信じながらも、表面的には受派でなければ厳しい弾圧をくぐることは不可能であったことから、人々は字谷の内九二一番地にあった妙道寺を仮の菩提寺とした。同寺について明治の『寺院台帳』には次のように載せられている。
 
   千葉県管下下総国香取郡多古町喜多字谷
                                  日本寺末 妙道寺
一、本尊   釈迦如来
一、由緒   不詳
一、堂宇間数 間口六間 奥行四間半
一、境内坪数 弐百坪  民有地第一種
一、住職   増田智行
一、壇徒人員 五拾人     以上
 
 このように由緒不詳となっているが『年中行事』は次のように記している。
 
 一、元禄十二年卯(一六九九)六月十四日晩五ツ時分ニ当村妙道寺焼出(ママ)ス 翌年建立成就
 一、文化六年己巳(一八〇九)十月十九、廿日客殿修覆諸尊開眼供養
 一、諸掛〆(文字記入なし)
 一、寄進〆金拾両余
 一、玄米 白米〆九俵也
 一、打ならし 壱ツ
   江戸信者四谷より寄普
 一、縁の細  三反
 右者 六側也 恵光師之代
 
参詣数多天気 一夜 二日無滞両日朝之間 陀羅尼品衆僧拾余人 法事修行中村壇林よ里 御当役 椿村海旭師両日読法金仁朱奉納宗祖大菩薩御衣替代金三歩也
三宝様御洗濯並修覆代金三歩也
御厨子直シ代金壱歩仁朱也
右者左原町大仏師左仲
〓(時)之住僧恵光師之代寄晋之覚(以下略)
 
 このようにして文化六年客殿の修覆と諸尊の開眼供養が行われ、つづいて天保九年(一八三八)門前の石段が造られ、天保十三年(一八四二)には門石が建立された。
 そして嘉永七年(一八五四)二月四日からは寺金の貸付けが始められた。この制度は別名「資堂金」とも呼ばれ、寺院維持資金を運用して一定の元金を村人達に年利一割ぐらいで貸付け、その利子をもって寺の維持費に充てる方法で、各寺院で広く行われた。初めは堂塔の建立を目的として行われたために「資堂金」と名付けられたらしいが、だんだん運営維持資金となり、元金も寺によっては本寺から借り受けたりすることもあったらしい。妙道寺では、元金の六両二分は新五右衛門祖母が寄進し、貸付けは村内二〇軒に平均割で貸したようである。
 現在同寺跡には、昔日を偲ばせるものとしては庭先の火の見に掛けられている半鐘一つがあるだけで、その刻字は次のとおりである。
 
奉誦久遠偈一万巻 右之志意趣者 半鐘建立施入之面々志処之諸精霊仏果菩提並各現当二世為祈禱
  下之総州香取郡千田庄中佐の村
   元文二丁巳天(一七三七)十月十三日
     妙高山妙道寺 十二世日啓
 為先祖両親菩提功徳施主 萩原重郎兵衛
 為先祖両親菩提施主 佐久間吉兵衛
 為父覚往院玄理菩提施主 大木新次郎
        惣旦那中
 為法順院宗賢  施主
      東台村 佐藤(ト)氏 茂平次 市郎兵衛 次郎左衛門 清兵衛 同栗山妙智 大石氏 妙寿 同おみき 同おとも
      石田屋孫三郎 間宮氏
      江戸神田住西村和泉守作
南無多宝如来 南無妙法蓮華経 南無釈迦文仏 鬼子母神 法華守護三十番神 十羅殺女