このように、一宇一堂ずつ造営された妙道寺も、明治九年に不受不施派の禁制が解かれると、抑圧されていた反動もあってか檀徒は一斉に不受不施派へ走り、寺は見るみるうちにさびれていった。これは改宗というよりも内に秘められていたものが爆発的に発散したと見るべきであろう。
不受不施派の隆盛につれて檀家を失った妙道寺のさびれ方はひどく、大正十年に管長大僧正河合日辰宛に提出した各申告書には、「本堂十坪、庫裡九坪、仏像、一塔、両尊四菩薩、宗祖大師」として、寺院の面目は保ってはいるものの、住職は東松崎顕実寺住職増田智行の兼務となり、檀家は、医師佐久間宗徳、農小野田繁次郎、同清宮福太郎の三世帯一八名のみとなった。間もなくこの檀家も離れて、登記簿に名をとどめるだけの寺となり、昭和三十三年には建物も取り払われて新しく佐野会館が建てられた。
一方、本来の不受不施派に立帰り妙道寺から離れた人々は、信仰の拠りどころとしての場を持つために、近郷の人達に呼び掛けて、中佐野二五戸、東台一九戸、大原五戸、林六戸、岩山二戸、船橋一戸、佐原二戸計六〇戸で喜多教会と名付ける題目堂を東台字妙見前九九七番地へ建立することとし、明治十八年四月十七日に日龍上人を招聘して上棟式を行った。同廿年十月に宝堂、同二十四年十二月に食堂が建てられ、本尊の祖師尊像は東京の信徒から寄贈を受け、同二十六年に内陣須弥壇が完成した。
しかし明治八年以来日正などの再興出願から、同九年四月十日をもって禁制を解かれ、各地で信徒の数が日増しにふくらんでいくなかで、同三十年を過ぎたころから、禁制打破の功労者である法主日正と補佐役日龍の間に、宗制についての見解の相違が目立つようになった。日正は、古来不受不施信徒は同宗の者以外とは交わらず、また伊勢神宮などのお祓いを請ける事を嫌ったりするが、このようなことを改め、もっと他との交流を自由にすべきであると唱えた。これに対して日龍は、古法護持こそ不受不施派の面目であるとして互いに譲らず、対立を深めていったのである。そして、遂には日龍が身を退くという事態となり、この波紋は喜多教会の信者間にも及んだ。
一日も早く日正・日龍の両師が和解して「衆生教化」の本道に立還るべきだとする和融組と、自ら退身して結果的には不受不施派から離れた日龍を支持する信徒を教会に出入りさせる事は謗法であるとする組との間で内紛が起こった。そして同三十四年十月十九日に和融組の大原五戸、東台五戸、中佐野七戸、林二戸の一九戸は喜多教会を離れて島正覚寺の直轄檀家となった。以来七年間信仰の争いに妥協はなかったが、大正三年に至って両者に和解が成立し、和解条件にそって東台に建てられてある喜多教会は、歴史的使命を果たしたとして取り壊されることになったが、建物の一部は現在地の字神の上九四九番地へ移築されて立派に存続している。
そのときの和解条件や内容はおよそ次のとおりである。
和解条件
香取郡多古町喜多東台字妙見台九百九拾七番地ノ宅地外二筆及同番地ニ在ル題目堂壱棟ヲ 明治三十七年九月ヨリ双方不和ノ為メ共有保持シ分配スル事能ハザリシ処 今回双方協議ノ上分配方法ヲ協定シ和解スル事左ノ如シ
一、宅地三筆ヲ大谷徳治郎外二十三名ニ名義変更スル事
一、題目堂壱棟此代金七拾円也 内金弐拾円ヲ売却費トシテ残金五拾円ヲ小野田繁次郎外三十九名ニ渡ス事
一、金拾円を宅地公課立替人大谷徳治郎殿ニ返ス事
但シ双方ヨリ金五円宛ツ出ス事
一、以前ヨリ双方ニテ預リ又ハ保管等ナシ在ル物品ハ其侭ニテ異議無之事
一、明治三十五年九月二十六日双方協議ノ上題目堂ヲ閉鎖致シ 其節取為替置キ候契約証ハ 尓来無効タルベキ事
右和解条件二通ヲ作成シ 双方一通宛所持シ異議ナク協定候也
大正三年七月十六日
和解委員
大谷徳治郎 印
萩原 長吉 印
佐藤蔵右衛門 印
山口 庄蔵 印
松本 良助 印
清宮岩太郎 印
木内敬三郎 印
加藤 佐市 印
小野田繁次郎 印
鈴木喜三郎 印
大谷多喜司 印