境界争いの判決文書
これまでも本文中にしばしば引用したように、享保元年(一七一六)ごろから明治に至るまでの村の歴史を克明に綴った『年中行事』が残されているが、同じく前記したように、これより三〇年ほど前の貞享二年(一六八五)に作られた村絵図が大切に保管されていた。この絵図は、現在の地図よりもある意味では見易く、当時の村の状況が手に取るようにわかるもので実に貴重である。本町内でも数少ない例である。
その裏面に、当時の営農上欠くことのできない肥料資源であった共同草刈場、秣場の境界争いの訴訟問題について記されているが、それによると、現在の三社神社周辺地域での東台対中佐野の争いに東佐野も加わり、結果としては中佐野側の敗訴に終わっている。絵図面上に判決を下した境界線の墨線を引いて裁定者の印が捺され、裏面に判決文および関係役人の署名印がある。
当時としてはかなり深刻な争いであり、それゆえにこの苦難を後世に伝えようとして、また二度と争いを繰返さないための証拠として、三〇〇年を経た現在まで、ほとんどそのままの姿で残されたのであろう。
次に判決原文を掲げて参考に供したい。
下総国香取郡東台村与(と)同国中佐野村並遠佐野村野論之事
東台村訴候者、右三ケ村入会野之続東台村小百姓持分、羽黒山之林多年植立候を、中佐野村之者理不尽ニ伐荒之旨申之、中佐野村より答候者、羽黒山之林則此方内野堺故飛松少々苅採候、聊入会地ニ而無之由申之、又遠佐野村百姓者、右野之中鎮守宮念仏塚等有之而自前々令支配処、今度両村諍論ニ付、中佐野よりハ内野と申、東台より者入会と申掠段、追而訴之三方遂糺明処、中佐野、遠佐野両村相互ニ為内野由申儀証拠不正、其上彼野北南之両辺並東方村際迠三ケ村田畑山林入交、殊野之中新開一円無之条三方為入会儀明白也。
然処東台村小百姓持分之羽黒林中佐野村内野境之由難申之、数年植立候を其侭差置上者東台村為地内儀無紛処、至去秋中佐野村之者右之林木大小三百本余伐採儀不届ニ付、為過怠中佐野村名主茂右衛門、十三郎、長兵衛、藤兵衛、久右衛門、長五郎令牢舎、其上苗木千本植返シ且高百石ニ付鳥目弐貫文令出之畢。
向後弥守先規於三箇村入会野不可及異論、仍為後証絵図之面野廻引墨筋加印判三方江下置之条、不可違犯者也
貞享二年乙丑七月廿五日
中隠岐 印 (御勘定頭中山隠岐守吉勝)
彦伯耆 印 ( 〃 彦坂伯耆守重治)
大備前 印 ( 〃 大岡備前守清重)
北安房 印 (江戸町奉行北条安房守氏平)
甲斐飛弾 印 (江戸町奉行甲斐庄飛弾守正親)
本淡路 印 (寺社奉行本多淡路守忠周)
坂内記 印 (寺社奉行坂本内記重治)
大安芸 印 ( 〃 大久保安芸守忠増)