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村の支配者

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 安藤氏による統治
 鎌倉時代の支配者については、千田庄の領主が誰であったかということなど、おぼろげながら史書から判断できるが、何時から何時まで、そして範囲が何処から何処までで、その中で何処は誰が治めていたかなどのことや、東台村はそのころどうであったかということになると皆目不明である。それらのことが比較的明らかにされるのは徳川時代に入ってからである。
 徳川期の支配者についての文書は村内からは発見できず、東佐野区有文書で、嘉永五年(一八五二)に隣村四カ村連名で提出した文書の中に、「安藤次右衛門知行所東台村」と記されたものがあったことから、それを手がかりとして調査をすすめたところ、その時代に地頭として村を所領していたのは安藤氏(旗本)であることがわかった。
 その安藤氏の系譜のあらましは次のとおりである。
 徳川家康の父廣忠の家臣に安藤家重という者があり、その五男の次右衛門定次が分家独立した。分家とはいいながら譜代の家臣である。
 正次のとき天正十九年(一五九一)相模国(神奈川県)高座・鎌倉二郡内で采地四百石を受け、数々の戦功によって慶長六年(一六〇一)下総国香取郡内で千百石の知行地を賜わった。東台村はこのときから安藤家の支配下に組み入れられたものと考えられる。慶長十九年(一六一四)大坂冬の陣の戦功によって武蔵国(東京)足立・多摩両郡内でさらに五百石を加増されている。
 次右衛門正珍(まさよし)の代の寛永十年(一六三三)御鎗奉行になると、甲斐国(山梨県)八代郡内でまた五百石加増されて、知行地内での開拓分を合わせると総高二千五百四十石となった。
 若狭守治右衛門定房のとき宝永二年(一七〇五)、甲斐国の知行地を武蔵国比企(ひき)・入間・高麗(こま)の三郡へ移される。西城の留守役・旗本奉行などを勤めて寛保三年(一七四三)七十二歳で没し、自ら開基した早稲田の龍善寺に葬られたが、以後同家ではここを菩提寺とした。
 以来明治に至るまで歴代当村を知行地としたが、ほかに香取郡内で知行したところに、島・水戸・小川・三ノ分目・丁子があり、東台での知行高は二百六十八石三斗あまりであった。
 旗本の年貢についてを知る資料として、他の村には『年貢皆済目録』、『年貢割付状』などの文書が残されているが、東台についてはその断片も探し出すことができず、残念なことに思われる。