変死人取扱いに関する文書
東台・中佐野・東佐野の三カ村にかかわる事件で、当時の行政の一端をうかがい知ることのできる古文書が幾つか出ている。その一つに嘉永五年(一八五二)八月九日に三カ村入会の草刈場内で変死人が発見されたことに端を発するものがある。これを見ると、こうした事件が落着するまでは、ある意味では現在よりも複雑な手続きを要し、慎重に取り扱っていたことがわかる。
次に、このことについての一連の古文書の内から、発見と報告・調査・処置に関する部分だけを抽出して載せてみよう。
乍恐書附を以御伺奉申上候
一、下総国香取郡東佐野村中左(ママ)野村東台村、右村々役人共一同奉申上候。
今度三ケ村入会秣場之中往還筋より余程入込藪茂り候中、死亡之者有之、去九日子供等為栗取罷出候節見付、此段早々村方へ立帰り右之次第被申入候ニ付、驚入早速欠付様子見届候処、日限も余程相立候哉、惣身肉衰年齢も三拾位之男と見請申候得とも聢と相分り兼、尚又懐中相改候処金銭書物等一切無御座、衣類之儀者紺青梅立縞之単物紺之腹掛下帯者木綿花色紋り、尤も其場ニ有合候ものハ川色縮緬之三尺帯と思敷者有之、其外一切無御座候。
因玆組合村々役人中立合被下処々尋候得とも人主相分不申、甚以難義至極仕候ニ付、不顧恐多御伺奉申上候。何卒格別之御慈悲を以前件之始末御差図被下置候ハヾ一同難有仕合ニ可奉存候。此段以書付奉歎願候。以上
嘉永五年子ノ(一八五二)八月十一日
御知行所東佐野村
組頭 倉吉
中左野村役人惣代
名主 小兵衛
安藤次右衛門知行所東台村
組頭 源兵衛
組合村惣代
小栗又一知行所五反田村
名主 次兵衛
初鹿野河内守様御内
和田藤太夫様
諏訪 六郎様
「変死一件」
嘉永五年八月日
差上申一札之事
死骸
一、男 面体肉腐乱 眼抜失 年齢不相分
一、紺青梅竪縞単物着
一、紺木綿腹掛懸
一、木綿花色木綿褌〆
一、首与胴与切放
但 首胴継合皮色縮緬 腰帯様之物切口ニ覆掛有之
一、頭体左之方長サ壱寸四分程幅壱分位 切口壱ケ所
一、頭体より面部之方江少々下り打疵壱ケ所
一、浅黄木綿手拭ニ而後手ニ縛り、寐臥候様ニ相成、首切口腹之辺致腐乱、虫越(を)生し、此節ニ而者聢と見分り不申、日数余程相立候様子ニ相見、秣場内血跡並踏荒候処も無之ニ付、右秣場ニ而殺害ニ致候様ニも不被存候。
右之通り私共義も罷出奉請御見分候処、少茂相違無御座候。 以上
初鹿野河内守様
御出役 諏訪六郎様
堀金十郎様
御出役 奥田重三様
安藤治右衛門様
御出役 亀田雄助様
池田播磨守様御組与力
御給知役
御出役 佐瀬祐太夫様
神尾市左衛門様
御出役 久保田伝太夫様
石ケ谷友之助様
御出役 清水波右衛門様
内藤十郎兵衛様
御出役 西垣仁右衛門様
山角磯之助様
御出役 山本藤左衛門様
御尋ニ付以書附申上候
下総国香取郡間倉村・飯笹村・井野村・大原村・林村・五反田村・右六ケ村役人一同申上候。今般同国同郡中佐野村・東台村・東佐野村三ケ村入会秣場地内ニ変死人有之、為御検使各様被成御越再応厳重御糺御座候共、何国之者ニ候哉、且何者之仕業ニ有之候哉難相分段一同申上候ニ付、私共村方者隣村ニ付如何敷風聞等有之候ハヾ、御内々有体可申上旨被仰聞奉畏候。
私共義是迠何成共如何敷儀承り不申候得共、右御尋ニ付猶又村内並最寄村々内実承り糺候得共、曽而怪敷風聞等一切無御座候。此段有体書上申候。 以上
神尾市左衛門知行所
下総国香取郡間倉村
石谷友之助知行所
同村
山角磯之助知行所
同村
内藤十郎兵衛知行所
同村
井戸対馬守組与力給知
同村
右五給役人惣代
神尾市左衛門知行所
同村
百姓代 定右衛門
組頭 清右衛門
名主 惣兵衛
松平中務領分
下総国香取郡飯笹村
本馬縫殿助知行所
同村
弐給惣代
松平中務領分同村
百姓代 彦右衛門
組頭 新兵衛
名主 久左衛門
松平豊後守領分
下総国香取郡井野村
百姓代 伊左衛門
組頭 新兵衛
名主 久兵衛
佐野欽六郎知行所
同国同郡大原村
百姓代 清兵衛
組頭 忠兵衛
名主 惣右衛門
小栗又一知行所
同国同郡五反田村
百姓代 平兵衛
組頭 佐右衛門
名主 治兵衛
中根定之助知行所
同国同郡林村
松下次郎太郎知行所
同村
有馬勇五郎知行所
同村
右三給惣代
有馬勇五郎知行所
同村
百姓代 次兵衛
組頭 佐左衛門
名主 勘兵衛
初鹿野河内守様
御出役 諏訪六郎様
堀金十郎様
御出役 奥田重三様
安藤治右衛門様
御出役 亀田雄助様
池田播磨守様御組与力衆
御給知役 佐瀬祐太夫様
神尾市左衛門様
御出役 久保田伝太夫様
石谷友之助様
御出役 清水波右衛門様
内藤十郎兵衛様
御出役 西垣仁右衛門様
山角磯之助様
御出役 山本藤左衛門様
初鹿野河内守知行所
下総国香取郡東佐野村
百姓 久右衛門
子 三拾六歳
同人忰 忠三郎
子 八歳
右申口
当月九日四ツ時過東佐野村・中左野村・東台村三ケ村入会秣場内ニ変死人有之候趣御訴申上候処、御給々様より為御検使被成御越始末御吟味ニ御座候。
一、此段久右衛門奉申上候。東佐野村・中佐野村・東台村三ケ村入会秣場、去九日為栗取差遣候処、変死人有之候を見付驚入四ツ時過馳帰申聞候ニ付、早速私義村役人江為相知一同罷越及見候処、男之死骸手疵受俯臥ニ倒居申候。一々者疵所衣類其外等見留不申候。且近辺取沙汰等怪敷風聞も及承不申候。此外何ニ而も可申上様無御座候。
同人知行所
同国同郡同村
名主代組頭 倉吉
子廿八歳
百姓代 弥右衛門
子三拾八歳
右申口
一、此段私共一同奉申上候。東佐野村・中佐野村・東台村三ケ村入会秣場内ニ変死人有之候を、東左野村百姓久右衛門忰忠三郎栗取ニ参り候処見付、驚馳帰り久右衛門より私共江申聞候ニ付、早速三ケ村役人共江致通達立合見届候処、年齢三拾歳位ニ相見候得共、日数余程相立候哉、惣身之肉落聢と不相分、紺青梅竪縞単物着紺木綿腹懸掛木綿花色褌〆、首と胴と切放有之、其外疵処弐三ケ所も有之候ニ付右秣場内見改候処、一向血跡も無御座候ニ付、他所ニ而殺害いたし右場所江捨置候義と乍恐奉存候。右ニ付番人附置早々御訴奉申上候。此外近辺取沙汰怪敷風聞も及承不申、何ニ而も可申上様無御座候。
安藤治右衛門知行所
同国同郡東台村
名主 吉兵衛
子 六拾壱歳
組頭 源兵衛
子 六拾六歳
同断 新右衛門
子 五拾壱歳
百姓代 蔵右衛門
子 六拾壱歳
堀金十郎知行所
同国同郡中佐野村
名主 長左衛門
子 三拾八歳
組頭 治右衛門
子 三拾七歳
百姓代 太兵衛
子 四拾八歳
池田播磨守組与力給知
同国同郡同村
名主 三木右衛門
子 五拾九歳
組頭 茂右衛門
子 三拾五歳
百姓代 磯右衛門
子 三拾六歳
神尾市左衛門知行所
同国同郡同村
名主代組頭 佐右衛門
子 六拾六歳
石谷友之助知行所
同国同郡同村
名主 茂左衛門
子 四拾四歳
組頭 九右衛門
子 四拾七歳
内藤十郎兵衛知行所
同国同郡同村
名主 清兵衛
子 三拾六歳
組頭 幸左衛門
子 廿六歳
山角磯之助知行所
同国同郡同村
名主 小兵衛
五十九歳
組頭 新五右衛門
四十四歳
初鹿野河内守様
御出役 諏訪六郎様
安藤治右衛門様
御出役 亀田雄助様
堀金十郎様
御出役 奥田重三様
内藤十郎兵衛様
御出役 西垣仁右衛門様
石谷友之助様
御出役 清水波右衛門様
神尾市左衛門様
御出役 久保田傳太夫様
池田播磨守様組与力
御給知役 佐瀬祐太夫様
山角磯之助様
御出役 山本藤左衛門様
『村用万事心得書』(嘉永六丑六月・東佐野邑 源右衛門記)より。
私知行所八給入会秣場ニ変死人之儀 期月相済候ニ付御届書
私知行所下総国香取郡東佐野村御徒頭神尾市左衛門 寄合石谷友之助 同堀金十郎 大御番本多日向守組組頭内藤重郎兵衛 御小姓組一柳播磨守組山角磯之助知行所 町奉行池田播磨守組与力給知 同国同郡中左野村小普請組諏訪若狭守支配安藤治右衛門知行所 同国同郡東台村右三ケ村八給入会秣場之内ニ変死人御座候趣、村々役人共より一同訴出候ニ付、夫々家来早速罷越見分之上、右死骸並雑物取計方之義、去子八月廿四日奉伺候処、同年九月廿日御覚書ヲ以被仰渡候通、人相年齢着服月日等巨細ニ認メ、村外レ住還端江建札致シ置六ケ月見合候処、尋来候者無御座候段、村々役人共より銘々地頭江申出候。依之建札取除、死骸者仮埋之侭土葬ニ取置、雑物之内用立候品者葬候寺院江為取申候、此段御届申上候。已上
月日
中奥御小性
初鹿野河内守
若年寄様
嘉永五子八月九日三ケ村入会秣場ニ変死人有之候ニ付、御地頭所へ銘々御訴御検使之上死骸仮埋いたし、六ケ月之間建札いたし置尋来候もの無之候ニ付、其趣又々御地頭所へ御訴建札取除候。
然処嘉永六丑五月朔日右死骸見付候場所より金三両壱分顕れ出候ニ付、番人共江金弐分、見付人江金壱分、三ケ村寺々江金壱分ヅヽ、金壱分死人之石碑立金壱分組合六ケ村江見舞、残り金三ケ村分配ス。見付人中佐野村太兵衛ニ付諸入用多分ニ相掛候ニ付、金三両也、六ケ村より御助成被下、三ケ村ニ而頂戴
大原 伊野 飯笹
間倉 林 五反田
右に載せた幾通かの書状を見れば、変死人があった場合の処置について、定法にかなったものといえよう。
東台村については、中佐野村・東佐野村と一体をなす地形上にあって、共通の入会地などもあり、相互に密接な関係にあったことは当然のことといえるが、三村合わせて八給地であったため、何かと難しい問題があったことも事実であろう。それらについては両佐野の項にも多少触れているので、参照されたい。