その後荘園時代に入り、多古町域を含む広大な荘園であった千田庄については、史書の一節に「淳和天皇、天長八年(八三一)に下総国に於いて空閑地七百余町歩を勅旨田とされた云々」とあることなどから、その誕生を平安時代初期と推定している(千田庄については通史編参照)。そして、千田庄の中心として「原郷」が多くの史書にその名をとどめている。上代すでに枢要の地であったことは想像に難くないが、その原郷の行政的中心地が現在の大原であるということは定説化していて、『多胡由来記』などでは当該地を多古町染井字原であるとしているが、郷土史家の多くは大原説を採っている。
寛治のころ(一〇八七~九三)原氏を名乗る武士の名が千葉大系図に記されている。この時代の両総の支配者千葉一族は、支配地を冠して名乗るのが例であったことから考えると、「原郷」の名称はこのころすでに定着した地名であったようである。
また、飯笹・瀧門寺の縁起に「……其後人皇七十六代(近衛天皇)久安年中(一一四五~五〇)、大原の城主加藤兵庫守宿願成就し、其礼として大伽藍を建立し、新に不動明王を造立し、千仏の前にせらしと云う」とあり、さらに南北朝時代の延元元年(一三三六)ごろと思われるが、当地方の様子を記した金沢文庫文書(四二二九、氏名未詳書状、『随自意抄』第七紙背)に、次のような一文がある。「抑、千田孫太郎殿、子息瀧楠殿、千葉介殿と一味同心、可落大嶋之由、依被申下候、竹元と岩部中務 定合力仕候、竹元も去月二十一日大原へ付候て、国中軍勢を集候、雖然候、けはしき合戦は未遂候(後欠)」(通史編に既出、一部省略)。
このように、大原周辺に関する戦いの一部を述べている。
『多胡由来記』の「牛尾能登守合戦之事」の項に「斯(かく)て当村(多古)之城主牛尾右近太夫天正三年(一五七五)能登守胤仲に任官し、近郷を掌に握り威勢さかん也。こゝに飯櫃村山室宮内、大原村加藤兵庫右之城主ことごとく入魂(じっこん)也」とある。この『多胡由来記』は全面的に史実を伝えるものではないとされるものの、同紙上で氏名の記された人物の子孫の口伝にこの物語と符合する部分が多く、集落内各所に残っている遺構などを調査した結果、大原集落全体が戦国期の城郭であったことも容易に肯定できる。
大原城址
以上のように大原は、上古から人が住み、荘園期・千田庄原郷の時代以後は政治と軍事の拠点であって、文物交流の頻度からみても極めて重要な地位を占めていたといえよう。