徳川期以前の支配者
時代を追って支配者と思われる者をあげてみると、寛治のころ(一〇八七~九三)後三年の役の戦功によって、千葉氏三代常兼が上・下総の介に任ぜられ両総の支配者となり、そして三番目の弟常房(鴨根三郎)が下総国千田庄の実権を与えられた。常房の三男清常が原五郎大夫と名乗り、その長子常光が大原三郎兵衛尉と称した。以来四、五代大原を名乗る者が続いたが、この時代に、常房(鴨根三郎)を頂点とする一族から、佐野・飯竹(飯篠・飯笹)・次浦などの現在の集落名を姓とする武将が出ている。
以上は千葉系図のうち、『千葉大系図』、『神代本千葉系図』から拾いあげたものであり、この系図書には年月が記されていないので年代を明確にできないが、右の常光(大原三郎兵衛尉)の代にはすでに城砦らしいものが築かれていたと思われる。
この城主としてその名の出て来るのが、前掲の加藤兵庫守である。『瀧門寺縁起』には久安年中(一一四五~五〇)とあり、『多胡由来記』には、牛尾胤仲が山室氏に討たれたとする天正十三年(一五八五)二月、共に滅びたとされていて、欄外に「加藤兵庫、千葉氏の家臣で当時の大原城主、天正十八年に亡ぶ、『林村由来記』にもあるが不詳」とある。
そして『林村由来記』には、「大閤秀吉関東へ攻め下り、小田原北条を攻め落し、夫より上総・下総へ攻め入り、千葉一統まで残らず攻め亡ぼされたり。其の時飯櫃の城主宮内卿親子共に、……即時に打ち落さる。……大原の城主加藤兵部なども城を明けて逃げ去りける。……」と記されている。
ここに、久安から天正まで四〇〇年を超える歳月があるが、継続して加藤家が居城としていたか、また文書の紀年の誤りか、今後の研究にまちたい。
徳川時代/佐野氏による統治
徳川時代に入ってからは代官所の支配となり、正徳二年(一七一二)の水帳に佐野三左衛門の名前が現われて来るが、以後明治に至るまで、約一六〇年あまり佐野氏の知行地であった。
旗本・佐野氏の概要は次のとおりである。
佐野家は代々下野国(栃木県)佐野城主で、鎌倉時代に諸国行脚の最明寺入道時頼が下野国佐野で大雪にあい、当時貧寒の境遇にあった佐野源左衛門(常世)家に一夜の宿を求めた。この旅の僧衣が、時の鎌倉幕府執権・北条時頼その人とは知らずに、秘蔵の鉢植の梅を切り、惜し気もなく火に投じて暖をとらせ、その夜鎌倉幕府への忠誠を四方山話のうちに披瀝した。その誠意に心を打たれた時頼は、帰鎌後源左衛門を召して三カ庄を与えたというが、この物語は謡曲「鉢の木」となってあまりにも有名である。
修理大夫信吉は秀吉に仕え、のち徳川家の臣となった。信吉の三男修理大夫公當(きんまさ)は、寛永十三年(一六三六)徳川家光から廩米千俵を拝領して一家を創立した。天和二年(一六八二)十二月に没して駒込養源寺に葬られたが、以後佐野家では同寺を菩提寺としている。
二代信濃守勝由は天和三年(一六八三)跡目を相続し、元禄十年(一六九七)下総国香取郡、相模国(神奈川県)大住・高座の三郡内で千石の知行地を受けて旗本となった。宝永二年(一七〇五)下野国で都賀・安蘇の二郡、相模国(神奈川県)高座郡、下総国香取郡の四郡内で二千石の加増を受け、三千石となった。大原村が佐野氏の知行地になったのはおそらくこのときからであろう。
勝由の異母弟に三左衛門茂包(もちかぬ)があり、兄の養子になって佐野家を継いでいるが、現存する水帳は三代茂包の時代に作成された。
四代右兵衛茂承(もちつぐ)のとき、安永三年(一七七四)に下野国安蘇郡内で新たに千石加増されて総高四千石となった。以後代々御留守役、奥詰などを勤め、明治に至るまで大原村を知行地とした。廃藩置県のときの当主は佐野欽六郎である。香取郡内では大原村の外、宮原・青馬・小南・溝原・貝塚(小見川)・玉造(佐原)の各村をその所領とした。
次に佐野家が大原村に課した年貢の内容を見てみよう。
下総国香取郡大原村卯ノ御年貢可納割付之事
一、高弐百廿六石弐斗九合 田畑辻
内
八斗七升七合 御蔵敷諸代引
壱斗五升 成就院不作半毛引
残高弐百弐拾五石壱斗八升弐合
此取米七拾七石六斗八升八合
此口米弐石弐斗弐升弐合
本口合七拾九石九斗壱升
此俵弐百弐拾 壱斗弐升六合
右ハ卯ノ御年貢割付之通 名主組頭惣百姓立合無高下致割方 来ル霜月十五日以前急度皆済可有之候 於滞ハ可為越度者也
正徳元辛卯年(一七一一)九月
佐野三左衛門内
斉藤武左衛門 印
吉岡友右衛門 印
落合伊太夫 印
香取郡大原村
名主 縫左衛門殿
組頭 惣百姓中
この年貢賦課は、年間の米換算総生産推定高二二六石二斗九合に対して納付高は七九石九斗一升で、年貢率は三割五分である。さらに時代が新しい寛政六年(一七九四)から五年間の割付によると、生産推定高が二四九石六斗三升三合で納付高は九二石二斗一升三合である。この率は三割七分で、この外に永(錢)四貫文が畑の夏作分として課せられている。
幕末になると納付高の資料がないので率の計算はできないが、推定生産高は二二六石二斗九合と、以前にもどっている。このことは、多少の変化はあったとしても正徳以来一五〇年の間は、年貢の納付高に大きな変化のなかったことを証している。
そして耕地面積の増減を見てみると、正徳年間の総面積が二九町歩余であるのに対して、明治初年の総面積は五九町歩余となっている。つまり正徳年間と同面積以上の三〇町歩余が、年貢対象外の耕地、いわゆる無税地だったのである。もちろん一五〇年間に漸増したものであろうが、当時の課税制度からみて、文字どおり恵まれた村であり、当然ながら、村民の財政に余裕をもたらしたであろうことは想像に難くない。加えて、長期にわたって佐野家だけによる一給地であったことも幸いしているといえよう。
こうした事実は、支配者が財政的に余裕を持てる事情があって貢納に細かい配慮をする必要がなかったか、あるいは意識的に善政を施したのか、または領民が開拓地を隠し田、隠し畑として隠蔽する技術にたけていたか、そのいずれか、あるいはいずれもが事実であったか、はかり知る資料も口伝もない。それにしても例の少ないことである。