かつて大原村は、不受不施宗徒のあいだでは著名な存在であった。同派の関係古文書にはしばしばその名が見られ、多古町東部や八日市場市東北部、東庄町北西部の不受不施宗徒の家に、大と焼印のある仏具を見ることがある。この大印は大原村の大とも大谷家の大ともいわれている。
大谷家は、不受不施派史料として重要な日奥の『諫暁神明記』やその書簡(後記)などを所蔵していることからみても、当地における中心が同家であったことは事実であろう。
徳川時代には表面はともかく、全世帯が不受不施派を内信していたが、現在では不受不施宗派の世帯九戸、日蓮宗四戸、真言宗一三戸である。そしてそれぞれ島・飯笹・井野・染井・多古の寺の檀家にわかれ、集落内に寺院はない。
正徳二年(一七一二)の水帳には、字荒神の前行に「長四間、横三間、屋舗拾弐坪、分米四升」として、成就院持ちの寺地所の存在が記されている。さらに明治初年の戸籍簿には「喜多村九拾弐番地所 官有地真言宗成就寺」の名が見られ、寺院の旧跡といわれている墓地と隣接する観音堂跡付近に、この成就院があったことを証している。
徳川期の不受不施派弾圧に当たって、この村には深い法難の傷跡を残していないが残されていた資料も少なく、それも重要資料として、研究者の手に渡ったまま行方不明になっていることから、その間の事情についての詳細をうかがい知ることはできない。
口伝に、寺院と並んで観音堂が建っていたとのことで、後年堂跡の畑地から金色の観音像が出土したことがある。その観音堂跡といわれている一隅には、成就院住職の墓印であろうかなかば朽ちた卵塔があり、「権大僧都法印定賢 延宝六戊午(一六七八) 月十三日」と刻まれている。
寺院跡といわれる字北の内四三五の二番は墓地になっていて、入って左側に、砂岩で造られた方形家型で正面に鳥居の付された墓石が五基並べて建てられている。そのうちの二基には文字が刻まれていて、一基には「寛永四年丁卯(一六二七)今月今日 逆修善根七分全得」と読みとれ、次の一基には「天和二壬戌(一六八二)九月四日」とだけ刻まれている。
ここに、不受不施派の中心となっていた大谷家の遠祖に、同派宗祖日奥が送った書簡の一部があり、次に参考として載せる。この宛名の「道清」は、大谷惣右衛門家四代目の当主の不受不施宗名で、書簡末尾の日付三月二十八日は「慶安四年(一六五一)三月二十八日」であり、不受不施派の第一回法難後、道清の援助に対する謝礼の書簡である、と伝えられている。
(前欠)
呈々御侭力増遣候由ノ段 令 候 貴老事朝暮芳書喜悦無極候 仍申出馴敷存斗 右本尊ノ事並善五郎 いつ可与路(かよろ) く一 年 筆之儀調上候侭力之段奇来之苦労ニ根気疲候間 妙至極ニ候 持上為御音信再会難期ハ申度事 銀子三匁 又善五郎分五匁両山候へとも 万方江紛候而 慥令相遅候事情候段喜入候 善空其外皆々無事ノ由目出度候 爰本仏法繁昌申候間可御心易候 時刻到来候者 令帰路万々可申述候為期後音候 恐々謹言
三月廿八日 日奥(花押)
道清老江
何分にも時代が古く、判読困難の箇所もあり、その上書き方が「散らし書き」にしたためられているので、いっそう意味が取りにくい。これは書簡の後半分らしく、先きの半分の行方は不明である。