多古町の北部周辺と芝山町北部の一部から流れて来る二つの小川があり、それが合流して多古橋川と名付けられ、船越丸山を通ってさらに栗山川に合流する。御料地・高津原・飯笹周辺よりの湧水と、間倉・芝山町北部の一部、飯笹西部からの湧水がこの二つの小川となっているのである。この二つの流れが合わさる地点(大字喜多大原字滝谷(たきやつ)一二の一、同一二の三)と、通称井野台・大原台と呼ばれる地帯の水を集めて東西に流れる川がT字形に合する地点(大字喜多井野字井野下四二の三、四二の二)を東端として、集落の東南部に水田がひらけ、北西部の台地には畑と山林が続いている。この台地の東端は細く突出し、水田部と接する位置に雛段状をなして住居が造られ、棟を寄せ合う形で集落がある。
この位置に集落ができたのはいつのころであるか、それについての明確な資料はないが、後に述べる古墳群の調査によると、住居跡が確認されていて、台地上においては、早ければ七世紀後半にすでに人々の生活があったようである。そして中世のころは現在の西部台地にあったとの口伝もある。集落の移動はひとり井野のみではなく、隣接集落も同じ歩みをなしたことであろう。
農家の住居はおよそ一五〇年を周期として建替えられるともいわれているが、現在では当集落には一〇〇年以上たった住居はなく、軒並みともいえる新築、改築によって様相は全く一変した。
しかし、住居や生活様式は変化しても、屋敷の地形は依然として幕政時代そのままの姿を現代に伝えている。
現在の集落の規模は
宅地 二町七反二畝四歩
田 一九町二反八畝一四歩
畑 一四町一反九畝二六歩
山林 三四町七反一畝一歩
原野 三反八畝二八歩
池沼 二反七畝一三歩
その他 八反五畝六歩
計 七二町四反三畝二歩
世帯数 三四戸
人口 一二九人 男六四人 女六五人となっている(面積は昭和五十九年十一月現在、人口は同年十月現在のものである)。
寛永八年辛未(一六三一)九月に、幕府役人植田治左衛門・岡部十左衛門の両名が調査した耕地についての明細を見ると、次のようになっている。なお、この文書は柏熊区で発見されたもっとも古い記録である。
下総国香取郡井野村
一、高弐百四拾九石六斗三升三合 本田畑辻
反別合拾八町七反廿七歩
内拾三町壱反九畝廿歩 田方
分米百九拾五石九升五合
五町五反壱畝七歩 畑方
分米五拾四石五斗三升八合
此訳
上田五町五反四畝拾三歩 十五 一八二四九六
分米百壱石壱斗八升弐合
中田三町九畝拾八歩 十二 一五二四九六
分米四拾七石弐斗壱升三合
下田四町五反五畝拾九歩 七 一〇二九六
分米四拾六石七斗
上畑弐町弐反四畝廿八歩 九 一二二四九六
分米弐拾七石五斗五升三合
中畑壱町四反三畝拾壱歩 六 九二四九六
分米拾三石弐斗六升壱合
下畑壱町三反六畝廿七歩 三 六二四九六
分米八石五斗五升六合
新畑 壱反三畝九歩 三 六二四九六
分米八斗三升壱合
屋鋪三反弐畝廿弐歩 十 一三二四九六
分米四石三斗三升七合
この文書によって寛永と現在を比較すると、田は六町歩、畑は九町歩の増加となっていることがわかる。
ここで寛永の田畑明細書についてもう少し考えをすすめてみたい。この文書を見ると、等級別に田畑の面積を記した行に、上田の場合「十五 一八二四九六」と数字が記されているが、これは田の平均反当収量を表わしたもので、その収量に対して一定率を乗じた数字が租税であり、年貢として時の支配者に現物で納めたものである。畑、宅地についても米換算で行われた。
徳川時代は上田について反当十五(一石五斗)の石盛(こくもり)が普通であるが、井野村の上田は公称が十五で、実質は、数字の示すように一石八斗二升四合九勺六才になっている。以下同様に、地目別等級別のすべてが公称基準数量より多くなっている。このように反当収量が多く見積られたことは、それだけ土地の肥沃さを高く評価された結果であり、技術的にもすぐれた営農を行ったからであろうか。
次に、こうした優良耕地を持った井野村は、どのくらいの年貢を納めたのかについてみると、弘化二年巳(一八四五)正月辰日の文書によれば次のようになっている。
井野村
一、高弐百四拾九石六斗三升三合
内米四斗壱升 定引
有高弐百四拾九石弐斗弐升三合 三ツ七分
取米九拾弐石弐斗壱升三合
永四貫文 夏成金納
米八拾弐石弐斗壱升三合
鐚七百四拾八文 夏成口銭
一高弐百三拾四俵三斗五升八合 本米
米六俵壱斗四升 口米
右納
一米八俵壱斗七升弐合五勺 定式引
内米壱俵 名主給米
米壱斗五升 砂溜土手敷永引
米七合五勺 牛房代引
米三斗三升五合 崩折砂溜半毛引
米八升 納人扶持米
米五俵 大豆拾俵代米 御夫人弐人
高〆弐百四拾九石六斗三升三合
これを見ると、やはり同じ多古藩領内の他村に比べて年貢は高くなっている。総収穫量二四九石六斗三升三合に対して三割七分の税率で、九二石二斗一升三合が賦課され、さらに畑の夏年貢、手数料を納めて、そこから名主給米、崖崩れによる減収量などを差引くとしても、実質年貢は、九三石一斗二升五合五勺となって税率は三割七分を超える。
しかし、以上のことは古公文書による、表向きのものであり、実際の収量は領主の検見(けみ)よりはるかに多かったことはたしかである。そこには隠されたゆとりもあったであろうし、この一事をもって当時の農民の生活についてを推量することはできない。あくまでも参考の域におくべきものである。