村としての生い立ちは、いつのころになるのか、地域が確立し地名が冠せられたのは近世になってからであろうが、「井野」と呼ばれるようになったことについて山口東岱(地域史編東台・人物の項参照)は、『山室譜伝記』にある「大原楠」を説明して、「下総に百丈の楠あり……今之総は枝也。上枝の落る所を上総とし、下枝の落つる所を下総とす。……木の根数里に這えり、又近在数千年経たる篠山あり。其実著しく実り、所の人民来りて喰す。飯の如く也とて竹米と云う。依て飯野村、飯篠村と名付く。今の井野、飯笹と云うは之より始むと」このように述べているが、もとより伝承的なものに基づいたものである。なお、あて字であろうが「伊野村」と記したものもある。
それ以前、この地域一帯を原の郷と呼んだ時代は、市川市中山法華経寺に伝えられている次の古文書(通史編に既出)によって知ることができる。
「譲与 下総国千田庄原郷阿弥陀堂職田地七段在家壱宇(中略) 右所々田畠等者胤貞相伝私領也(以下略) 元応三年(一三二一)九月四日 平胤貞(花押)」
この一文によっても、西暦一三〇〇年代に原郷なる地名があったことはわかる。
次に、原の地名はいつごろから呼称されたものかを考えてみる。
古代はさておき、中世に北総一帯を開拓支配した千葉氏一族は、名乗りの一部に地名を冠する習慣があったことから、『千葉大系図』の中から原を名乗った人物を求めると、第三代千葉介常兼の弟常房の長男が岩部五郎、次男が原四郎、三男が金原庄司と名乗っている。原四郎は通称で、正しくは平常途であり、この人物の項には「分二与下総国上総国郡郷一令レ居于千葉生実城」と記されている。
また、『神代本千葉系図』では「常宗」となっていて、常宗の孫から飯竹(飯笹)・佐野・大原・次浦などを名乗る人物が現われている。こうして千葉系図の上から見る限り、寛徳二年(一〇四五)に生まれた常兼から四代を経たころか、またはそれ以前に佐野・大原・飯笹などの隣村が形成されたのではないかと思われ、したがって井野も当然ながら、同じ時代に形づくられたのではなかろうかと推察するわけである。