中世には、現在の集落よりはるかに大きな地域を千葉一族が支配していたことは、幾多の文献によってうかがい知ることができるが、それ以降、多古藩主として松平氏がこの地を領するまでの期間は、よく知られていない。
寛永十二年(一六三五)十一月九日多古藩主となった松平(久松)豊前守源三郎勝義は、後年飯笹に陣屋を構えた松平因幡守康盛とその祖を同じとしている。同家については通史編および多古の項に載せられてあるのでここでは省略するが、その松平氏が寛永十二年から慶応三年の大政奉還まで、代々この地の藩主として治政に当たった。
明治始めには多古県の区域に入り、さらに同十年四月からは、東佐野・中佐野・東台・大原・井野の村々が合併して喜多村となり、同二十二年四月市町村制施行と同時に発足した多古村に編入、多古村喜多区井野となった。