古墳
通称井野台と呼ばれる台地には大小の古墳が四一基見られる。これはひとり井野台のみにとどまらず、栗山川本支流の台地上に数多くあるうちの一群と見なすべきであろう。大小の古墳が群を成しているということは、古代人の生活がそこにあったということの証明である。
昭和五十三年に、成田用水事業に伴って発掘調査された井野台古墳群は、字大塚、字小塚、字篠山の一帯と、三〇〇メートルほど西にある字木戸前、字大蔵一帯の二カ所に集中されている。発掘による出土遺物の主なものは、鉄刀・土師器・須恵器・縄文土器片・陶器片などであった。字木戸前の古墳からは、前記のもののほか、赤色塗彩をほどこしたものや墨書土器などが発掘されたことは、大いに注目すべき点であろう。
年代的に考察すると、これらはだいたい七世紀後半から八世紀に及ぶものと、九世紀初頭から同後半にわたるものとの二種類に分かれるようである。
本項では、現代に直接的なつながりをもつと思われる字木戸前の古墳と、大規模な住居跡から出土した墨書土器(七点)について簡単に触れることとするが、この墨書土器の特徴は、杯形土器の底部に「千」とはっきり読める文字が書かれてあることである。この「千」の文字は、数字や数的吉祥句のほかに、「千田庄」に関連するとも考えられ、書体についていえば明らかに写経体の影響が認められる。おおむね奈良から平安への過渡期に書かれたものと見られる(発掘調査報告書)。
また、字木戸前付近から約三〇近い住居跡が発掘されたことによって、ここに集落の存在したことが裏付けられた。これらの事実は、木戸前付近は井野の水田西部の突端であるが、隆起して海や湖が湿地に変わり、稲作伝播となった時期とも合致する。さらに、この付近に貝塚があり、その中に獣骨の痕跡を残しているが、それに重なって稲の形骸も発見された。
井野沢は現在の谷津上から次第に東に向かって拓かれたようで、この地域では早い時期の開拓開始地ということができる。開拓が東に拓かれるに従って、住居もまた東へ移動したらしいことは、古墳の年代が木戸前大蔵から小塚へ、さらに大塚篠山付近へ行くに従って新しくなって来たことからも充分にうかがえるのである。
井野村が多古藩中最高の年貢率であったことも、このように早くから水田が拓かれ、永い肥培管理の歴史があって、他地区と比較したとき、収量も当然多かった結果であるといえよう。