この薬師堂の由緒について調査の成果を得ることはできなかったが、内陣には、一部破損している寄木造りの薬師如来座像と、脇侍と思われる破損のひどい木造像二体が安置されている。薬師像台座の内側に由緒の一端かとも思える一文が墨書されているが、判読できた部分から、まとまった意味を理解することは困難であった。それは次のとおりである。
右請 意趣者信
旦那息災延命 安隠
福祐自 長久祈所
奉修腹造立処者
下総国香取郡千田之 郷大原
井野村東光寺末 山
医光院住寺七代メ
珎堯法印為逆 菩提
処 復
清遍土色
時
寛永二年 霜月八日敬白
其 脇旦那ハ
〓木薩广守
藤ケ崎庄左衛門
太原越前か太
サツマ
スイカカ
老母
仏師板
盛善院
是ヲ 公ス
薬師堂本尊
前文の文字から考えられるのは、寛永二年(一六二五)ごろに東光寺または医光院という寺があったということと、〓木・藤ケ崎・大原なる人物が後援者で仏像を造ったのではないかということであるが、ほかに関連する史料がないので、明確なことはわからない。
この薬師堂も、かつては眼病平癒を祈願する人で賑わった時代もあり、また第二次大戦後の混乱した時代、一時薬師像が堂から紛失したこともあったが、いつの間にか人知れず還されていたという話も伝えられている。