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路傍の小祠・石宮など

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 十九夜塔 薬師堂脇の道端に二基の石塔があり、向かって左側が十九夜塔である、板碑状の石に、像と「奉造立十九夜念仏 延享二丑(一七四五)十二月日 井野村講中十五人」の文字が刻まれている。
 毎月二十日が千手観音の縁日なので、その前夜に念仏を誦え精進して縁日を迎えた講中が建てたものでもあろうか。
 子安大明神 十九夜塔の右側で、上部は屋根形をしている。「子安大明神 延享四卯(一七四七)正月吉日 同行十五人」と刻字されている。何処の集落でも行われている子安講の祭神である。
 馬頭観世音 字堂山台(どうやまだい)一九六番地にある。石塔には「馬頭観世音 嘉永六丑年(一八五三)十月 佐久間伊左衛門」と刻まれている。変化観世音の一つで、牛馬の守護神である。この場所は近年まで牛馬の爪切場であった。古くは一般的に伯楽場と呼んだ傷病家畜の治療場であったのであろう。
 道祖神 右の馬頭観世音と同番地に、損壊のため神名も読み取れなくなった小さな石宮が七、八個まとめて置かれている。村に入る災いを防ぎ、旅人の安全を守る神とされているが、ところによっては、縁結びの神であったり、顔の痘痕や痣を癒す神であったりする場合もある。
 庚申塔 字大塚五二八番地にある。横長の石板に本尊といわれる青面金剛王が刻まれていて、「奉造立庚申尊躰二世安楽也 享保八卯(一七二三)十一月吉日 同行十一人」と刻字されている。大きく繁茂した椎の木を背景に、土盛りされた小丘の上にあって、右の道祖神から約一五〇メートルほど西に向かった場所である。その前の道路は、かつての井野村にとって主要道路であったことがわかる。
 多古藩家老の墓 庚申塔から一〇メートルほど離れた道沿いに、三基の墓石が建てられてある。その右側には、枯れない以前の大きさが想像もできないほど大きな椿の切株がある。この墓石を地区民は「多古藩家老の墓」と呼び、斉藤家が管理している。
 墓石の刻字はそれぞれ、表には「隨賢院釋專心居士 譲恭院釋良意居士」、横には「文久二壬戌歳(一八六二)三月二十一日 文久二壬戌歳(一八六二)七月十一日」。
 もう一つの墓石の表には「大義院釋良忍居士」、横は「嘉永二己酉(一八四九)八月二日」。
 さらにもう一つの墓石の表は「信行院釋誠宗居士 信静院釋誠淳居士」、横には「文政十丁亥(一八二七)五月十五日仝歳(一八二七)十一月二十七日」と刻字されている。
 ここにこの墓石が建てられていることについて、多古藩家老高橋勘作を手掛りとして、分家筋の子孫に当たる高橋雅巳氏に教えを受けたところ、三つ並んだ墓石のうち「大義院釋良忍居士」とあるのが多古藩家老高橋勘作方義の戒名であり、右側の「隨賢院釋專心居士」が勘作の弟で吉野真角方哲のそれであることがわかった。
 さらに同家に伝えられる話に、多古藩で、藩の存亡にかかわるほどの大事件が起こり、その対策に苦慮していたとき、知行地が隣接していて、その祖を同じとする飯笹の地頭松平氏の奨めに従って、責任者が切腹自刃してこの難局を切り抜けるべきであるとの方針が決まり、家老の高橋勘作がその責を一身に負って、江戸浜町の分家の一室において切腹した。このことによって多古藩は改易されることなく、多古から磐城へ移封されただけで落着した。そして勘作は菩提寺の芝・光明寺に丁重に葬られたということである。
 このようなことから考えると、引責自刃をすすめたといわれる飯笹松平氏が、勘作の霊を弔うため、自らの知行地飯笹から最も近い多古藩領地内に墓所を造って供養したのではないかとも思われるが、弟でしかも他家の人となっていたはずの吉野真角の墓もあることや、他の三人の墓石との関係などについては不明である。
 なお、多古藩内に起きた事件については、既に通史編ほかに述べてあるのでここに重複は避けるが、神代徳次郎逃去の一件である。
 嗽様 字諏訪崎一〇五番地内にある。隣の大原から井野に入るところで、普通は道祖神か庚申塔の祀られる場所である。堂の傍に道祖神と刻字された小宮もある。
 三〇センチほどの石宮には神名はなく、側面に「安永七戊(一七七八)四月吉日 当村願主花蔵院宥鑁(ソウ)」と刻まれている。堂前には石の手洗いがあり、鳥居も建てられている。正式の社名も祭神も明かではないが、住民は、「しゃぶり様」、「しべり神様」などと呼んでいる。
 故菅澤子之助氏(飯笹)の書き記したものによれば「嗽神社、よく小児の咳嗽に霊験ありて、大人の風邪にも卓効あり、信者きわめて多し」とあって、多くの信者を集め、参詣祈願人の絶える日はなかったといわれている。