染井古墳群 昭和三十三年、多古高校社会科クラブの調査報告によれば、地内に前方後円墳二、方墳三、円墳二六、計三一基の古墳が群をなし、二基の前方後円墳はそれぞれ長さ四〇メートル、高さ三・二メートル。長さ二〇メートル、高さ二メートルである。円墳二六基中、すでに畑として開墾されているため計測困難のものが九基、他は方墳ともに直径二〇メートル以下、高さはおおむね二メートル以下で、ほとんどは原形をとどめていない。
貝殻横穴墳 明治四十年ごろ、字貝殻の横穴から石斧および人骨を発掘したという。横穴古墳であったのであろう。
妙福寺跡 妙暹寺わきを登ったところに妙福寺跡がある。同寺は小湊・誕生寺の末寺で、通称「上の寺」と呼ばれていた。明治三十年、本山を同じくする妙暹寺と合併した。
正徳院跡 字正徳院にある。此所にかつて正徳院という寺院があったことから字名となった。「正徳院塚」と呼ばれた長さ三〇メートルの大きな塚があった。昭和三十三年ごろ調査し、後に畑に造成して地区民に分譲した。
日増断食跡 口伝に、集落地域内に日蓮宗不受不施派僧日増が、同派に対する幕府の弾圧に抗し、自ら断食死したという断食跡があるといわれるが、確認できなかった。なお、寛文九年(一六六九)渡邊治左衛門に授与した題目曼荼羅がある。
一里塚 古くから「一里塚」と呼ばれる道程塚がある。一説に中村檀林より起算して一里の里程とある。
俳人飛鳥園一叟がこれについて記した文があるので、次に載せる。
染井なる里に醇醬を販て、風雅の店舎あり。さながら猩々も待ねば遷 をも畜はず、前には纓濯ふ難き流を構へ、三笑の徒も渡るべき橋を懸て、更に欲界にそまらず、只恵みを天にまかせて、福いを私に願はざりけり。
さて武蔵野や に名高き花の都へ往き来る の旅客は、貴となく賤となく僧俗風人酒中の仙も此処に憩ふて飽く迠に楽み、春は遠山の枕なし雲に雨運ぶかと き、秋は洗染の紅葉に き目を疑ふ。遙に七村八村の山邑の美景は、いづれの工も刻りなしがたく、画工も筆を投難しと眺望して麻の脚半に刻を移すとかや。
されば彼村々あるが中に東台てふ処の水月庵のあるじ俳地の利を考て、此酒家に月毎文台の席を設、遠近の風君群参して終日滑𥡴を詠吟す。幸なるかな酒舎の傍にさくらを栽し一塚あり。いにしむかしより往還の一里塚にして一と木の花今に春を忘れず。斯栄の久しければ、其まゝに酒軒を名付て一櫻舎と呼事になりけらし。
文化三寅(一八〇六)の春
花に遊ぶ日 飛鳥園はる人拝書
一読して風流なたゝずまいを思わせるものがある。
小井戸の滝 「六百年の昔より祖師の教へと今も猶ほ桜染井の糸滝は眼の薬そと仰かるる」戊午貫月上旬漫遊の途多古町に遊びて詠める。訥堂。
これは大正七年「多古の八勝」と題して詠まれたものの一つである。この付近に現在の多古妙光寺があったといわれる。いうまでもなく「小井戸」は区内の字名である。
滝は高さが約二メートルあり、龍の口から細く滝壺に落下している。どんなひでりの年でも涸れることはなく、またこの滝水を飲み、この水で炊いた飯を食べると母乳が豊富になるといわれ、かつて遠近より水を求めてこの滝を訪れる女人は後を絶たず、そのため、滝の近くに茶店が出たということである。
小井戸の滝
石造の竜口は明治二十五年、石額は弘化五年(一八四八)の造立で、わきの石塔は天保十二年(一八四一)の建立である。