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村のすがた

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 江戸時代三給地であった染井村の総石高は、元禄郷帳によれば四五七石一斗五升、天保郷帳で五三七石九斗六升六合三勺、旧高旧領調べでは五三八石七斗七升一合二勺である。家数は四七軒であった(弘化二年)。住民はすべて農業を営み、大工、屋根職などを兼業する者が若干あった。
 初鹿野伝右衛門知行地について延宝七年(一六七九)二月二十六日、検地が行われたが、当時の記録によると、
 
     田方検地
  反合 弐拾弐町五反九畝拾八歩
     此王け(訳)
   上田 七町壱反五畝九歩    壱石三斗代
    分米 九拾弐石九斗八升九合
   中田 五町八反九畝三歩    壱石壱斗代
    分米 六拾四石八斗壱合
   下田 六町四反五畝四歩    九斗代
    分米 五拾八石六升弐合
   下々田 三町壱反弐歩     七斗代
    分米 弐拾壱石七斗四合七勺
  高合 弐百三拾七石五斗五升六合七勺
     外
    芝間 七畝壱歩
 
     畑検地
  反合 拾三町五反九畝弐分
     此王け(訳)
   上畑 六町九畝弐歩        七斗代
    分米 四拾弐石六斗三升四合七勺
   中畑 弐町七反四畝二歩      六斗代
    分米 拾六石四斗四升四合
   下畑 三町壱反九畝弐拾弐歩    四斗代
    分米 拾弐石七斗八升九合三勺
    下々畑 壱町五反六畝六歩    三斗代
    分米 四石六斗八升六合
  高合 七拾六石五斗五升四合
     外
   中畑 壱反拾五歩   山王免
   下々畑 六畝拾八歩   同断
   上畑 五畝弐拾歩    除地
 
     新田畑検地
  反合 六町三畝弐拾歩
     此訳
   下田 三畝九歩          七斗代
    分米 弐斗三升壱合
   下畑 弐町弐反八畝七歩      四斗代
    分米 九石壱斗弐升九合三勺
   下々畑 三町七反弐畝四歩     三斗代
    分米 拾壱石壱斗六升四合
  高合 弐拾石五斗弐升四合三勺
     外
   荒地 壱反九畝拾四歩
 
     屋敷検地
  反合 壱町七畝九歩
    内七畝拾四歩 御蔵屋敷引
    残九反九畝弐拾五歩      七斗代
    分米 六石九斗八升八合三勺
 
 (注) ○○代は反当収量
 
  田畑屋敷反合 四拾三町弐反九畝拾九歩
     此王け(訳)
   弐拾弐町五反九畝拾八歩     田方
    分米 弐百三拾七石五斗五升六合七勺
   拾四町六反六畝拾壱歩       畑屋敷共
     内七畝拾四歩 御蔵屋敷引
  残拾四町五反八畝弐拾七歩
    分米 八拾三石五斗四升弐合三勺
   六町三畝弐拾歩          新田畑
    分米 弐拾石五斗二升四合三勺
  惣高計 参百四拾壱石六斗弐升三合三勺
 
   (注) 分米(生産石)は元禄五年九月、相違があったので改めた。
 
 このようになっている。
 文久四年(一八六四)正月、領主に提出した「人別宗門鉄鉋改」による当主の名前は次のとおりで、家数は両寺檀家合わせて三二軒である。「法花宗妙福寺檀家 作兵衛・久右衛門・茂左衛門・久兵衛・太兵衛・七右衛門・縫左衛門・武兵衛・定右衛門、法花宗妙暹寺檀家 孫右衛門・七郎右衛門・源兵衛・長兵衛・次右衛門・平兵衛・源左衛門・佐右衛門・孫兵衛・甚右衛門・利左衛門・縫之丞・太右衛門・政右衛門・佐兵衛・源右衛門・利吉・次郎兵衛・庄右衛門・次左衛門・利右衛門・伊右衛門・半右衛門。男六十九人、女六十五人 合一三四人、馬十五頭」。そして、時の組頭は直助・作兵衛、名主は縫之丞であった。
 初鹿野次郎左衛門知行地は、元禄二年(一六八九)九月に田畑改めが行われている。それは次のようである。
 
     田方地改
   上田 弐町四反壱畝弐拾壱歩    壱石三斗代
    分米 三拾壱石四斗弐升壱合
   中田 三町六反七畝八歩      壱石壱斗代
    分米 四拾石三斗九升九合三勺四才
   下田 三町壱反六畝拾歩      九斗代
    分米 弐拾八石四斗七升
   下々田 壱町弐反六畝三歩     七斗代
    分米 八石八斗弐升七合
   合て 拾町五反壱畝拾弐歩
  田高〆 百九石壱斗壱升七合三勺四才
 
     畑方地改
   上畑 壱町四反六畝弐拾三歩    六斗代
    分米 八石八斗六合
   中畑 壱町八反九畝拾八歩     五斗代
    分米 九石四斗八升
   下畑 壱町四反拾弐歩       四斗代
    分米 五石六斗壱升六合
   合て 四町七反六畝弐拾三歩
    分米 弐拾参石九斗弐合
   屋敷 五反六畝七歩        七斗代
    分米 三石九斗三升六合三勺四才
  畑屋敷合 五町三反三畝歩
  畑屋敷高〆 弐拾七石八斗三升八合三勺四才
 
     新畑地改
   中畑 五反九畝弐拾壱歩       五斗代
    分米 弐石九斗八升五合
   下畑 弐町壱反四畝拾壱歩半     三斗代
    分米 六石四斗三升壱合四勺九才
   下々畑 弐町弐反五畝弐拾弐歩    二斗代
    分米 四石五斗壱升四合六勺七才
   合て 四町九反九畝弐拾四歩半
  〆高 拾三石九斗三升壱合壱勺六才
  総高 百五拾石八斗八升六合八勺四才
 
 そして、村民の名前に次の一八名が見られる。与八郎・彦兵衛・作左衛門・惣十郎・四郎兵衛・四郎右衛門・惣右衛門・清右衛門・半兵衛・長右衛門・権四郎・利右衛門・佐左衛門・重兵衛・六兵衛・三右衛門・市左衛門・源之丞(元禄二年)。
 三木平八郎知行地についてみれば、享保六年(一七二一)七月の反別帳によると、田畑屋敷の反別、石高は次のようになっている。
 
     田反別
  田反合 三町八畝弐拾六歩 (上・中・下不詳)
  石高合 三拾八石壱斗六升四合六勺
     畑反別
   上畑 弐反四畝拾六歩       八斗代
   中畑 三反弐畝四歩        七斗代
   下畑 六反拾六歩         五斗代
   屋敷 壱反壱畝弐拾歩       八斗代
  畑反合 壱町弐反八畝弐拾六歩(屋敷含)
  石高合 八石壱斗七升弐合
  田畑屋敷反合 四町三反七畝弐拾弐歩
  〃   高合 四拾六石三斗三升六合六勺
 
 そして、村民に小右衛門・小左衛門・惣五郎・傳五郎・清兵衛・善兵衛・九右衛門の名前がある。
 次の「高反別書上帳」は、慶応四年(明治元年)知県事役所(宮谷県・知県事柴山文平)に提出したものである。
 
     高反別書上帳
                             多古組合四拾九ケ村之内 染井村
  一、高五百三拾八石八斗三升壱勺五才
    反別 六拾七町四反四畝三歩
 
                            初鹿野伝右衛門元知行所
  一、高三百四拾壱石六斗弐升三合三勺
    反別 四拾三町弐反弐畝五歩
      内訳
     田高 弐百三拾七石五斗五升六合七勺
     反別 弐拾弐町五反九畝拾八歩
     畑高 百四石六升六合六勺
     反別 弐拾町六反弐畝拾七歩
   亥年取米 百八拾弐俵六升六合四勺弐才
   子年取米 百七拾八俵弐斗六升六合四勺弐才
   丑年取米 百九拾九俵弐斗六升弐合七勺五才
   寅年取米 百七拾九俵壱斗八升壱合六勺八才
   卯年取米 百九拾六俵壱升六勺四才
  五ケ年合米 九百三拾五俵三斗八升七合九勺壱才
                                右知行所 名主 縫之丞
 
                            初鹿野啓之助元知行所
  一、高百五拾石八斗八升六合八勺五才
    反別 弐拾町八反四畝六歩
      内訳
     田高 百九石壱斗壱升七合三勺四才
     反別 拾町五反壱畝拾弐歩
     畑高 四拾壱石七斗六升九合五勺壱才
     反別 拾町三反弐畝弐拾四歩
   亥年取米 百拾九俵
         永五貫弐百弐拾壱文壱分
   子年取米 九拾三俵三斗
         永五貫弐百弐拾壱文壱分
   丑年取米 百弐拾五俵五升
         永五貫弐百弐拾壱文壱分
   寅年取米 九拾五俵三斗壱升
        永五貫弐百弐拾壱文壱分
   卯年取米 百拾四俵三斗
        永五貫弐百弐拾壱文壱分
  五ケ年合米 五百四拾八俵壱斗六升
                              永弐拾六貫百五文五分
                               右知行所 名主 佐左衛門
 
                            三木薫太郎元知行所
  一、高四拾六石三斗弐升
    反別 四町三反七畝弐拾弐歩
      内訳
     田高 三拾八石壱斗六升四合六勺
     反別 三町八畝弐拾六歩
     畑高 八石壱斗七升弐合
     反別 壱町弐反八畝弐拾四歩
   亥年取米 弐拾六俵三斗六升三合七才
   子年取米 弐拾五俵三斗六升三合七才
   丑年取米 弐拾九俵三斗六升三合七才
   寅年取米 弐拾三俵三斗六升三合七才
   卯年取米 弐拾九俵三斗六升三合七才
  五ケ年合米 百三拾六俵弐斗壱升五合三勺五才
 
  (注) 屋敷は畑に含まれている。
 
  右之通高反別取調奉差上候。巨細之義者追而可申上候。以上
                                  下総国香取郡染井村
                                     名主  縫之丞
     慶応四戊辰年七月日
      知県事 御役所
 
 そして、明治四十二年の面積は
 
   田   三九町五畝一四歩
   畑   二二町七反二畝二四歩
   宅地  四町一畝九歩
   その他 三九町七反一畝二九歩
    計一〇五町五反一畝一六歩
 
であり、
 現在では(昭和五十九年十一月現在)次のようになっている。
 
   宅地  七町五反七畝二四歩
   田   三四町六反一三歩
   畑   二五町二反四畝二六歩
   山林  三二町六反九畝三歩
   原野  七畝一九歩
   その他 四町五反二〇歩
    計  一〇四町七反一五歩
   世帯数 一〇五戸
   人口  四四三人 男二一五人 女二二八人
 
 世帯数と人口は昭和五十九年十月現在である。