農民にとって水と農地の問題は共に深刻で、古くからしばしば争いのもとになった。
ここに、多古橋川の両岸、上下流の村々農民の宿命ともいうべき用水出入について、明和年間(一七六四~一七七一)の資料の一部を載せて、当時を偲ぶよすがとする。
用水出入帳
また大旱魃のあった明治十九年、上流の井野・飯笹が多古橋川の堰止めをしたことによって下流に水が行かず、多古・島・船越の農民が染井に集まり、飯笹・井野の農民は飯笹に集結し、「堰を切れ」「いや、切らぬ」とあわや実力行使になろうとしたことがある。このときは、双方の代表染井萩原縫左衛門、飯笹萩原喜右衛門の説得と妥協により両方了解して事なきを得たという。
乍恐以書付奉願上候
初鹿野清右衛門知行所
下総国香取郡染井村
惣百性代名主 理左衛門
百性惣代 治郎兵衛
初鹿野勘解由知行所
同国同郡同村百性惣代
名主 佐左衛門
三木八十五郎知行所
下総国香取郡染井村百性惣代
名主 小左衛門
一、染井村用水堰川上下江、此度隣村当御殿様御知行所之内東台村地内名所小蓋芦と申処、当春中田地之内江新堰下構取繕土普請仕候ニ付、此段弐拾壱ケ年以前ニも相構候得共、水下ニ弐ケ所之古堰御座候。松平豊前守様御領分多古村々堰、並安藤岩之丞様御知行所嶋村、右両村ニ往古よりノ古堰御座候得者、渇水之節者障リニ相成候故、其節多古村よりも申出染井村ト一同ニ相断早速引取セ申候。其以後八ケ年以前ニ茂又候取繕候を、前々之通リ遂断ヲ引為取申候。
然所当春中又々右之通リ相構候得共、隣村之義ニ而早速遂断ヲ候義茂気之毒ニ奉存、暫見合其分候得共、古来無御座新規之儀ニ而、殊之外田地之障リ相成リ難義仕候ニ付難差置、依之東台村江引取呉候様ニと度々遂断ヲ候処ニ、引払不申其分ニ差置候ニ付及難儀候処ニ、近村より扱人罷出、染井村用水川上余水之こほ連を草堰ニ致置、渇水之節者用水引を候様ニと及取扱ニ、夫より東佐野村始メ近郷拾ケ村役人追々相加リ、扱人段々取扱候ニ付、染井村三給寄会相談之上、右扱之拾ケ村ニ対し、私共存寄古来之通リニも難成了簡仕及挨拶ニ候義者、今度築立候大縄手其分差置候而者、染井村田地是迠水湛無之場所水附仕難儀仕候得共、右拾ケ村取扱之儀ニ御座候間、此度築立候大縄手、高サ壱尺之所五寸通リ上土取捨候ハヽ、五寸計リ水湛之儀者、自今上土置上ケ不申候様ニ、双方立会之上定杭立置候ハヽ右扱ニ不及旨申談候得者、此儀何茂承知之上取扱ニ可相調筈之処、東台村違返致シ我意申募リ右取扱相破リ申候。
然上ハ古来無之新規之義、殊ニ用水之障リニも相成リ殊ニ御田地水附仕彼是難儀ニ御座候。勿論水下古堰有之候両村之義も、新法之義出来仕候而者、障ニも相成リ難義仕候義ニ御座候。依之何卒右之段々被為聞召訳、御知行所東台村名主御百性方へ、新規之儀相止メ古来之通リニ仕候様ニ被仰付被下候ハヽ、偏ニ難有仕合ニ奉存候。
若東台村不得心ニも御座候ヘ者、不及是悲出入ニ及候より外致方無御座候。左候而ハ隣村之東台村と自今遺恨越求メ、殊ニ困窮之村方ニ御座候得者、入用等も重々難義ニ御座候間、何卒御是悲を以テ、右之段々被為聞召訳、何分新規之儀ヲ相止、古来之通リ致候様ニ偏奉願上候 以上
初鹿野清右衛門知行所
下総国香取郡染井村名主
百性惣代 理左衛門
百性惣代 治郎兵衛
初鹿野勘解由知行所
下総国香取郡染井村
明和元甲申年八月日 百性惣代名主 佐左衛門
三木八十五郎知行所
同国同郡同村
百性惣代名主 小左衛門
安藤岩之丞様
御役人衆中様
乍恐返答書を以奉願上候
下総国香取郡染井村
名主 理左衛門
名主 佐左衛門
名主 小左衛門
百性惣代 治郎兵衛
右四人ハ訴訟方
下総国香取郡東台村
名主 五郎兵衛
当時煩ニ付罷出不申候
組頭 藤兵衛
組頭 源之丞
百性惣代 藤右衛門
右御三給村役人共、私共村方を相手取リ出訴仕候ニ付、村役人共ニ御差紙被下置奉驚出府仕候所、右之者共差上候訴状之写拝見仕候上返答可仕旨被為仰付候ニ付、左ニ奉申上候。
訴訟方より差上候訴状之文言ハ此間ニ御座候。右ニ訴状有之候間、此所江書不記
右訳者、私共村方ニ而先規無之新堰猥取立可申謂レ無之候。右之者共新堰と申立候得共全ク堰と申ニ而者無御座候。
東台村百性新五兵へ(衛)所持仕候田地之内、小蓋埜と申処一体地くぼニ御座候而、悪水之節者前後押水仕候而荒地罷成り、且又渇水之節者近辺之田地迠甚渇水仕難儀至極仕候ニ付、右田地之内江長サ三四間之所先規より草〆切有之候処、去々午年去未ノ年右両年共八月殊之外大洪水ニ而、右有来候草仕切押流候ニ付、当春中右草仕切修理仕候処ニ彼是難渋申掛迷惑仕候。曽而新堰と申ニ而者無御座候。
私共村方先年両度迠新堰相構候処、多古村と染井村より相断候ニ付取払申候段申上候得共、此義も新堰と申ニ而者無御座候得共、右両村之障リニ相成候段申候ニ付其節早速取払申候。然処ニ前文ニ申上候通リ、午未両年洪水之節押流候草仕切修理仕候義、右御三給村方よリ差障候而者迷惑仕候。何卒右洪水以前有来候草仕切ニ御座候得者、此度修理仕候趣ニ而差置候様ニ奉願上候。右草仕切取払申候而者、右場所近辺之田地迠自然と荒地ニ罷成リ、何共難義至極仕候。依之御是悲を以テ修理仕候様ニ被仰付被下置候様ニ偏奉願上候。
右出入一件ニ付、同国同郡東佐野村始近郷十ケ村役人共取扱ニ罷出テ、高縄手堤ミ高サ壱尺之所、五寸通リ上土取捨候様ニ仕立合定杭立置候ハヽ、右拾ケ村役人共可取扱趣申候処ニ、私共村方右扱相破候段申上候得共、右訳者東佐野村始拾ケ村役人取扱呉候節、高縄手と申程之致方ニ而者無御座候。且草仕切仕候義ニ御座候。
依之扱人共申候ハ、此度之修理致候有形之内高サ五寸取捨其分ニ差置、以来右之趣より高ク不仕候様立合之上ニ定杭立置候様ニ可仕旨、其上双方より右之趣ニて以来申分無之段書付為取替置候様取扱候処ニ、私共村方より右扱之者共江挨拶仕候得者、御知行所内江、外給より立合候而定杭立置申候而者、後日ニ新堰等之様ニも被申立候而ハ旁々以テ後難之程難計御座候段申之、右定杭立置候段不承知之趣申候。其上為取替書付之義染井村之者共不承知ニ御座候。仍之取扱相調不申候。然者私共村計リニ而扱相破候義ニ茂無御座候。
然処ニ、染井村と中佐野村東台村右三ケ村寺方四ケ寺、取扱ニ罷出テ先取扱ニ相掛候。拾ケ村役人共申合其後私共村方へ達而意見差加へ候者、立合定杭之儀者右高サ之印ニ而内杭打置候事ニ御座候へ者、差而越度ニも相成間敷候。万一チ御咎メ御座候ハヽ拾ケ村一同之越度ニも可致段申候ニ付、村内打寄相談仕候処、左候ハヽ内杭之儀ニ御座候ハヽ、万一チ御地頭様より御咎メ御座候ハヽ右之趣申上、其上品ニより取捨候而も内杭之儀ニ御座候得者、差而村内之越度ニも相成間敷候。
其上彼是仕候而者、却而御地頭様之御苦労ニも罷成候而者不宜、殊ニ小村困窮之村方ニ御座候得者、路用雑用物入等も御座候而ハ此上之困窮ニ御座候間、右四ケ寺拾ケ村ニ取扱ニ任セ申度旨村中一同ニ申候ニ付、取扱人共方へも此段挨拶仕候。
既畢相互ニ御田地養方可仕堂(た)免相争イ候義ニ御座候得者、何卒右之取リ扱人申候通リニ而相互ニ御田地養方相続仕候様ニ奉願上候。 以上
下総国香取郡東台村
当時煩ニ付不罷出不申候
名主 五郎兵衛
明和元甲申年九月日 組頭 源之丞
組頭 藤兵衛
百性惣代 藤右衛門
御地頭所
御役人衆中様
組合村々取扱内済証文之事
一、下総国香取郡東台村並同国同郡中佐野村右両村ニ而、旱魃之節漏覆レ水用水ニ引来候場所、東台村田地之内字小蓋芦ニ而、当春中土普請修理仕候所、同国同郡染井村用水殊ニ田地之差障ニ可相成段、右染井村より安藤岩之丞様御役所迠及出訴ニ候ニ付、双方被遊御召出御吟味之上、絵図面被仰付奉畏、則絵図面ニ取懸候所、隣郷組合八ケ村名主中並上総国武射郡加茂村両名主中扱候義、左之趣ニ御座候御事
一、小蓋芦ニ而当春中土普請致候場所、染井村御田地水腐無之様、堰用水ニ差障リ不申、右場所不致定堰、東台村中佐野村用水右場所ニて致草仕切用水引取候様、扱之者共立合、高下無之様ニ当春中立置候杭木相用イ、以来右杭木定規ニ相定可致修理候。杭朽損立替之節者、右扱之者共立合立替可申候事
右之通リ三ケ村得心之上内済仕申上者向後遺恨無之和談仕、前後々年ニ双方我意申間敷候。為後証八ケ郷名主中加判証文、依之如件
間倉村 名主 太兵衛
飯笹村 名主 平兵衛
井野村 名主 勘兵衛
大原村 名主 縫左衛門
東佐野村 名主 藤右衛門
五反田村 名主 治兵衛
林村 名主 長兵衛
水戸石成村 名主 左兵衛
上総国加茂村 名主 治右衛門
右拾人ハ扱人者共 同国同村 名主 佐右衛門
左ノ拾壱人ハ
相手村者共 東台村 名主 五郎兵衛
同村 組頭 源之丞
東台村 組頭 藤兵衛
明和元甲申年閏十二月日 同村 組頭 平左衛門
同村 百性代 藤右衛門
中佐野村 名主 善兵衛
同村 名主 五左衛門
同村 名主 新治郎
同村 名主 長兵衛
同村 名主 吉兵衛
染井村三給役人 同村 名主 勘兵衛
名主 理左衛門
組頭 孫兵衛
同断 勘兵衛
名主 佐左衛門
組頭 四郎右衛門
名主 小左衛門
組頭 惣右衛門
右之通リ扱証文、明和八卯年七月廿三日松平対馬守様御奉行所ニ而、御留役金沢安太郎様江指上置申候
差上申一札之事
一、先達而染井村より東台村へ相懸リ候同村地内当春中土普請仕候用水出入一件之儀、安藤岩之丞様御屋鋪へ願書差上候ニ付、御三給御役人中様御立合之上段々御吟味被下候処、此度内済、取扱八ケ村為惣代大原村名主縫左衛門、伊野村名主勘兵衛尚又江戸表テ迠罷出、段々取扱之上双方熟談相調内済仕候間、先達而より右一件ニ付差上置候諸書付共、私共へ御帰し被下候様取扱人より御願申上候ニ付、則願之通リ諸書付共不残御帰し被下、慥ニ奉請取候。
勿論取扱之趣双方得心之上熟談内済仕候上者、向後右出入之義ニ付双方より御願ケ間敷一切申上ケ間鋪候。為後証仍而如件
染井村 名主 理左衛門
明和元甲申年閏十二月十七日 訴訟方 同 佐左衛門
同 小左衛門
東台村名主五郎兵衛煩ニ付代
五郎八
相手方 組頭 源之丞
百性代 藤右衛門
安藤岩之丞様
御役人中様
初鹿野清右衛門様
御役人中様
初鹿野勘解由様
御役人中様
三木八十五郎様
御役人中様
そして、以上のような水利・堰について、その後は次のように改善されている。
潅池 明治四十三年完工の耕地整理のとき溜池、用水路などを造った。すなわち割田川、五ケ所の溜池、用水路があり、溜池は所在の組が管理し、用水路は毎年川ざらいをしている。
堰 多古橋川染井下に築いていた堰の開閉によって、用水は島・船越・多古・林に及んでいたのであるが、下流地域では年々水年貢を支払っていた。大正七年に、島区よりの水礼三円を玄米一俵代の八円に改めたという記録がある。また村人によって毎年堰普請、川刈りがなされたことはいうまでもない。
明治二十五年、それまで木製であった堰関門を石門に改修した。大正四年四月、堰元下部を約一・八メートル掘り下げて石材を積み、流口へは御影石を敷いた。同十一年四月、堰元より下流の左右を石垣とした。昭和三年、飯喰(めしぐい)堰を石材によって改修した。同八年三月、堰下左右の石垣四〇間を増設した(政府匡救事業)。同九年三月、堰上南側の一三五間を石垣とした(二年継続事業)。同三十一年二月、染井堰の大修繕をした(工費約二三万円)。