つぎに飯笹の生いたちについてふれるが、まず、先人の遺跡の中で最も確かな証(あかし)といえる古墳を見ることによって、かつての人々の生活のあとをたずねることにする。
侭田、加茂に通ずる農道に沿って大小三〇基あまりの古墳があり、字大蔵の畑中には直径約四〇メートル、高さ一〇メートルほどのものが見られる。この古墳群は、さきに発掘調査された字木戸台の住居跡の西方に当たり、それに続く場所である。
字外山(そとやま)五四三番地付近、すなわち地福寺裏地と、字辻屋台の墓地の間にも大小一〇基の古墳があった。畑地として開墾されてしまったので、今はわずかに残る二基がそれと認められるのみであるが、開墾時に出土した石棺の蓋が地福寺に保管され、その中の一つには梵字が彫られている。ちなみに、字外山が開墾を開始したのは明治三十九年からであり、地福寺の所有地であった。
ここの古墳はすべて円墳であり、石棺は組合わせ式で、底部・側面部は硬質砂岩で、上部の蓋は黒色の平石、継目には固く粘土が詰められていた。人骨、刀剣、土器、鉄器、玉石類が出土したが、いまは先に記したように蓋部のみが地福寺に残されている。
字三明寺台四一番地付近、字ヲボミ一一五番地付近、字向台と、南北に続く同一台地上にも大小二〇基余の古墳があるが、本項では、昭和五十二年五月に調査された字ヲボミ一一六番地付近の一基についてのみを次に述べることにする。
この古墳は、直径約三〇メートル、高さ七メートルほどのもので、その裾部は削り取られ、石棺の一部が露出していた。石棺は硬質砂岩によって造られたもので、墳の南面中腹部にあり、人骨一体がほぼ完全な形で西向に仰臥していた。
埋葬品としては、直刀二振が人骨の右側に、一振が左側に置かれていた。鏃二〇本が右足元にまとめてあり、鉄器類はかなり腐蝕していた。このほか、水晶の管玉、大小のビーズ状の玉も多数発掘されているが、これらの出土品は人骨も含めてすべて多古町教育委員会に保管されている。
接続する土地に、最近破壊されたが、二基の古墳があり、その一基には二つの石棺があった。副葬品について詳しく知ることはできなかったが、いずれも前記古墳と大きな差異はないようである。ただその中の一棺には一枚六〇センチ×九〇センチ×一〇センチの黒い硬質黒色岩盤が蓋の上に乗せられてあり、梵字が一字刻まれていたとのことである。
なお、このあたりの畑や坂道から鏃類や管玉・勾玉・斧などが発見されるが、これは、染井台から十余三周辺までの台地に共通して見られることであるという。
字三明寺一帯にも大小一四基の古墳が散在しているが、大は直径五〇メートル、高さ一〇メートル近くあり、小さなものには、自然の侵蝕や人為的掘削などのために、土饅頭程度の大きさになったものもある。この古墳についても、さきに発掘された字ヲボミの古墳と同時代(中期後半から後期)以前のものと推定される。
三明寺跡ともいわれている日蓮宗檀徒の墓地の中にある古墳は、直径一五メートル、高さ八メートルぐらいのもので、昔この地に三明寺と称する寺があり、三体の黄金の仏像を所蔵していたが、一体は身延山へ、一体は島の寺へ贈られ、残った一体をこの古墳に埋めたという口伝を残している。
付近の山林に、土手をめぐらした敷地跡らしいものや、溝に囲まれた住居跡とみられる場所がある。
ここに見てきたように、当地区一円に散在する古墳は、古墳時代中期(五世紀代)から同後期(六世紀以降)以前のものと推定されているが、被葬者などについてはなお今後の研究にまたねばならない。