村域は南北に長く、東西はそれより短い楕円形である。南端の字浅間から北端の字五辻までは約五キロメートルあり、東端の井戸山と接する字ヲボミ(バス停飯笹入口)から、西端の加茂に接する字大蔵までは約三キロメートルである。
御料地方面と間倉方面から流れてくる二つの小川に沿って水田が拓かれ、その水田は谷津田となって複雑に入り込んでいる。丘陵地は東、西さらに北へと延び、平坦地は畑が多く、ついで針葉樹林となり、傾斜地のほとんどは雑木も含めた山林となっている。この山林地帯にはかつて猪が繁殖し、農作物が多大の被害を受けたことから毎年初秋に猪狩りをした。明治開墾がすすめられて以来すでに猪は棲息しないが、猪狩りに使用した猪突槍をいまなお所蔵している家がある。
集落は、水田が御料地方面と間倉方面に二分する地点に始まる丘陵地の、おおむね東側に形成されている。近年は、旧村落南端の水田が埋め立てられて住居が建ち、旧軽便鉄道沿線や、登戸台・鷹ノ巣・侭田などの開墾地帯にも新しく住居が増えつつある。
集落の規模は、昭和五十九年十一月現在で、
宅地 二二町八反三畝二二歩
田 六七町七反四畝一九歩
畑 一四二町九反二畝二六歩
山林 一一六町四反二二歩
原野 三町二反四畝二六歩
池沼 一反一五歩
その他 一二町二反七畝一一歩
計 三六五町五反四畝二一歩
このようになっていて、人口・世帯数は昭和五十九年十月現在「五辻(飯笹)を含む」で、
世帯数 二一八戸
人口 八六二人 男四三七人 女四二五人
である。
次に、史料によって昔の様子を見てみると、まず宝暦十年(一七六〇)に書かれた『田畑屋敷反別帳』によると次のようになっている。
下総国香取郡飯笹村田畑屋敷反別帳
名所さんミやうじ
一、中田 弐反六歩
同 むかひ
一、中田 壱反六畝三歩
同 種井尻
一、下田 壱反壱畝三歩
同 み屋し多
一、中田 弐反七畝九歩
同 ほそた
一、中田 壱反壱畝弐拾七歩
同 ふく路多
一、下田 弐反壱畝三歩
同 そよ落
一、下田 弐反三畝拾五歩
同 はた井
一、下田 九畝六歩
同 阿りき
一、下々田 六畝三歩
同 阿連た
一、下々田 七畝九歩
田合壱町六反五畝弐拾壱歩
中田 八反七畝拾弐歩
此高拾弐石弐斗三升六合
下田 六反四畝弐拾七歩
此高七石七斗八升八合
下々田 壱反三畝拾弐歩
此高壱石三斗四升
田高合弐拾壱石三斗六升四合
名所 徒ちや
一、中畑 五畝弐拾四歩
同所
一、中畑 九畝拾五歩
同 志ゆく台
一、中畑 五畝弐拾四歩
同所
一、中畑 壱反壱畝拾八歩
同 とう屋つ
一、下畑 弐畝弐拾七歩
同 たき
一、下畑 七畝六歩
同 む可ひ
一、下畑 壱畝拾弐歩
同 辻や台
一、下畑 弐畝弐拾七歩
同 むかひ台
一、下々畑 弐畝弐拾四歩
同 つちや台
一、下畑 弐畝弐拾四歩
同 なかさく
一、下々畑 五畝弐拾四歩
同 むかひ台
一、下々畑 壱畝弐拾七歩
同 かうや
一、下々畑 壱畝弐拾七歩
一、屋鋪 壱畝六歩 六郎兵衛
一、同 壱畝三歩 伝兵衛
一、同 壱畝九歩 儀兵衛
屋敷畑合六反六畝歩
中畑合三反弐畝弐拾壱歩
此高弐石六斗壱升六合
下畑合壱反七畝六歩
此高壱石弐升六合
下々畑合壱反弐畝拾五歩
此高五斗
屋敷合三畝拾八歩
此高三斗弐升四合
山高
四斗七升壱合
惣高合弐拾六石三斗壱合
右之通相改相違無之候 以上
宝暦十庚辰歳三月
本間修理内
千葉文左衛門 印
金子常右衛門 印
下総国香取郡
飯笹村名主
六郎兵衛殿
組頭
百姓代
これから八五年後の弘化二年(一八四五)に、名主五左衛門の記した「御新田鷹之巣検地割附其之外諸向書類入用品々共控帳」には次のようにあり、標準の一反当たり収穫量を斗を単位の数字で示した「石盛(こくもり)」もあることから、参考のため次に載せる。
一、高四百弐拾三石六斗九升九合 飯笹村
一、上田 四町五反三畝拾八歩 盛十四
一、中田 七町六反弐拾七歩 〃十二
一、下田 拾五町弐拾七歩 〃十
一、下々田 四町三反七畝廿四歩 〃七ツ
合田高三拾壱町五反三畝六歩
三百三拾五石五斗四升八合
此納百六拾九石五斗七升八合八勺 五ツ。五四ノ取
一、中畑 七町三反五畝拾弐歩 盛六ツ
一、下畑 七町弐反七畝九歩 〃三ツ
一、下々畑 四町三反三畝拾弐歩 〃二ツ
一、屋鋪 壱町六畝六歩 〃九ツ
合弐拾弐町弐畝九歩
八拾四石壱斗六升
山高 三石九斗八升弐合入テ
此納 拾石九升九合弐勺 壱ツ壱分五厘之取
田畑屋敷合テ
五拾壱町五反五畝拾五歩 右屋敷も壱ツ壱分五厘取
此納米
百七拾九石六斗七升八合也
外ニ米四斗六升八合 田方内江押砂入畑成ニ付見分之上取米減ス
又外ニ米壱升三合六勺七才 右同断ニ付口米減ス
此斗立百八拾九石四斗五升六勺
右之内外ニ米壱俵也 五左衛門江永代被下置候 此処江扣置事
其外諸役共除ニ相成候間
但シ諸役之義者 年々永弐百五拾文宛永代被下之候事
このように、総高は四二三石六斗九升九合であることがわかる。
そして、『御相給本間重右衛門様高反別其外供調書』には
中田 八反七畝廿弐歩
此高拾弐石弐斗三升六合
下田 六反四畝廿七歩
此高七石七斗八升八合
下々田 壱反三畝拾弐歩
此高壱石三斗四升
田反別合壱町六反六畝壱歩
田高合 弐拾壱石三斗六升四合
中畑合 三反弐畝弐拾壱歩
此高弐石六斗壱升六合
下畑合 壱反七畝六歩
此高壱石弐升六合
下々畑合 壱反弐畝拾五歩
此高五斗
一、屋鋪高 壱畝六歩 六郎兵衛
一、同 壱畝三歩 伝兵衛
一、同 壱畝九歩 儀兵衛
屋鋪合 三畝拾八歩
此高三斗弐升四合
山高 四斗七升壱合
右之通本間様高相改候処相違無御座候 以上
と、本間氏分の石高が記されている。
さらに、明治となって、宮谷県に提出した次の文書を見ると、
巳反別割附書上帳(本間・松平合併)
下総国香取郡牛尾村附属 飯笹村
一、高四百弐拾三石六斗九升九合
此反別五拾壱町五反五畝拾五歩
此訳
田高三百三拾五石五斗四升八合
反別三拾壱町五反三畝六歩
内
高壱石五升六合六勺六才 砂押し引
反別壱反拾七歩
残高三百三拾四石四斗九升壱合四勺
反別三拾壱町四反四畝拾三歩
巳取米百弐拾四石七斗七升 本途
定免百六拾九石壱斗壱升七合九勺五才 高壱石ニ付五斗五合四勺取
高六拾三石五斗四合
上田四町五反三畝拾八歩 石盛十四ツ
高九拾壱石三升八合
中田七町六反弐拾七歩 〃十二
高百五拾石九升
下田拾五町弐拾七歩 〃十
高九斗弐升五合八勺弐才
下田九畝六歩
残高百四拾九石壱斗六升四合壱勺八才
拾四町九反三畝四歩
高三拾石六斗四升六合
下々田四町三反七畝廿四歩 石盛七ツ
此訳
畑屋鋪高八拾八石壱斗五升壱分
弐拾町弐畝九歩
山高 三石九斗八升弐合
巳取米 八石九斗壱合 本途
内訳
高四拾四石壱斗弐升四合
中畑七町三反五畝拾弐歩 石盛六ツ
高弐拾壱石八斗壱升九合
下畑七町弐反七畝九歩 石盛三ツ
高八石六斗六升八合
下畑四町三反三畝拾弐歩 石盛弐ツ
屋鋪高九石五斗五升八合
壱町六畝六歩 石盛九ツ
巳取米合百三拾三石六斗八升 本途
外ニ
永弐貫五百八拾九文八分
定免取米合テ
百七拾八石四斗壱升八合
永弐貫五百八拾九文八分
元本間縫殿助上地
一、高弐拾六石三斗壱合
四斗七升壱合 山高ニ入
反別弐町三反壱畝弐拾壱歩
此訳
田高弐拾壱石三斗六升四合
反別壱町六反五畝弐拾壱歩
(朱書)定免取米七石弐斗六升三合七勺六才 高壱石ニ付三斗四升取
高拾弐石弐斗三升六合
中田八反七畝拾弐歩 石盛十四ツ
高七石七斗八升八合
下田六反四畝弐拾七歩 石盛十二
高壱石三斗四升
下田壱反三畝拾弐歩 石盛十
畑屋鋪高四石九斗三升七合
反別六反六畝歩
巳取米五斗弐升弐合 高壱石ニ付壱斗壱升五合取
内訳
高弐石六斗壱升六合
中畑三反弐畝廿壱歩 石盛八ツ
高壱石弐升六合
下畑壱反七畝六歩
高五斗
下々畑壱反弐畝拾五歩 石盛四ツ
高三斗弐升四合
屋鋪三畝拾八歩 石盛九ツ
取米合テ四石四斗三升
(朱書)定免取米合七石七斗八升五合七勺弐才
高三拾六石五斗三升九合 御新田
此反別拾八町弐反三畝廿七歩
此訳
田高壱石八升三合
反別六畝歩
巳取米壱斗六升七合 本途 小物成
永弐貫三百廿六歩
(朱書)定免取米三斗壱合
(来書)御定免取米合テ
米三斗壱合
永弐貫三百廿七歩
下総国香取郡飯笹村
明治三年午五月 什長 新兵衛 印
組頭 九兵衛 印
兼庄屋 喜右衛門 印
宮谷県
御役所様
とあって、総高数の四二三石六斗九升九合はかわっていない。
なお、さきに載せた反別帳は宝暦十年(一七六〇)のものであるが、そのころの土地質入れ値段、小作料、竹木価格を記入した古文書が区有文書として残されているので、これらの値段を知るうえの参考にもなろうかと、次に載せる。
田畑屋鋪質入直(値)段 小作入上 竹木直(値)段書上帳
一、高四百弐拾三石六斗九升九合 下総国香取郡飯笹村
一、上田壱反ニ付 質入金壱両壱分位 小作入上米六斗
一、中田壱反ニ付 質入金壱両位 小作入五斗
一、下田壱反ニ付 質入金弐分弐朱位より壱両壱分位迠 小作入上米三斗八升位より五斗七升位迠
一、下々田壱反ニ付 質入金壱分弐朱位より壱両位迠 小作入上米弐斗八升位より四斗位迠
一、中畑壱反ニ付 質入金壱分弐朱位より三分弐朱位迠 小作入上米壱斗八升位より三斗位迠
一、下畑壱反ニ付 質入金壱分位より三分位迠 小作入上米壱斗位より弐斗位迠
一、下々畑壱反ニ付 質入金弐朱より弐分位迠 小作入上米五升位より八升位迠
一、屋敷壱反ニ付 質入金壱両壱分位より壱両三分位迠 入作上米知不申候
一、杉木栗木無御座候得共[長壱丈より弐間迠四寸より五寸角迠] 代永拾壱文位
一、松柱壱本ニ付 但し[長壱丈より弐間迠四寸より五寸角迠] 代永拾弐文位
一、松丸太壱本ニ付 但し[長壱丈より弐間迠壱尺五寸より弐尺廻り] 代永五文位
一、唐竹一本ニ付 五六寸廻り代永二文位
一、同竹壱本ニ付 五六寸廻り代永弐文位
一、同竹百本ニ付 代永弐拾文位
右者当村田畑屋敷質入直段小作入直段並ニ竹木取直段吟味仕、書面之通り書上申所相違無御座候。以上
戌(宝暦四年か)五月日
下総国香取郡飯笹村
名主 伊兵衛 印
組頭 太左衛門 印
同断 五左衛門 印
百姓代 権右衛門 印
前沢藤十郎様御役所
(裏に) 宝暦十一年巳六月
渡辺半十郎様 差上候
上田の石盛を十四と評価されているところへ、小作料として六斗納めることは、小作人にとっては相当に苦しいものであったといえよう。
続いて、人口について記す。かつての人口がどのくらいであったかを知るための史料はなかなかそれを見ることができなかったが、天保十一年(一八四〇)三月十二日付の「日蓮宗人別改帳」と同日付の「宗門人別之改帳(真言宗)」によってその詳細を知ることを得た。この二冊の文書は巻頭に
壱季居出替之為時節之間、宗門之儀念を入改之、耶蘇宗門ニ而無之旨請人立可被召抱事。耶蘇宗門今以密ニ有之、所々より捕来候間、不審成もの不有之様、面々領内無油断念ヲ入可被申付候事
領中被相改之、不審成もの不差置、耶蘇宗門隠置他所より於顕ニ者、庄屋五人組迠可為曲事。手形取置毎年改之旨趣具(つぶさ)ニ書記、切支丹奉行江可被相渡、此外頭々支配人有之面々者改之書付改之支配方迠可差出之、其頭々支配人より組中書付被取、何連茂無之旨一紙是又毎年切支丹奉行江可被相渡事
附、耶蘇宗門御禁之高札、暦年席文字見兼ニ於て者新敷可被立替事
右之通御書付従前々宗門之儀、郷中穿鑿被仰渡、名主百姓妻子下人者不申及、寺社同宿沙門並道心者行人虚無僧山伏浪人等、地借店借壱人茂不残相改候処、疑舗者無御座候。
若不吟味致耶蘇宗門之者訴人脇より出候ハバ、当人者不申及、名主組頭五人組何様之曲事ニ茂可被仰付 。 為其銘々印形帳面差上申処如件
天保十一子年三月
とあり、次頁から各寺別に一軒ごとの家族の名前や年齢などが洩れなく記されている。たとえば、
宗旨代々真言宗地福寺 旦那茂左衛門 印
年四十二歳
同寺旦那 母 志ま 印
年六十六歳
同 女房 い弥 印
年三十六歳
同 女子 志げ 印
年十三歳
同 男子 寅松 印
年十一歳
同 女子 かく 印
年五歳
〆人数六人 内男弐人女四人
とこのように記されていて、地福寺分の男女別合計が
〆人数六拾五人 内男三拾壱人女三拾四人
右之通真言宗ニ而拙寺旦那ニ紛無御座候。若脇より御法度之切支丹宗門与申もの御座候ハバ、拙僧何方迠茂罷出、急度申分可仕候。為後日寺請状仍而如件
本寺上総国武射郡飯櫃村蓮福寺
末寺下総国香取郡飯笹村地福寺 印
と、このようにまとめられている。
以下、満福寺分は人数一六一人(内男七七人女八四人)、瀧門寺は人数三二人(内男二〇人女一二人)、妙福寺(一鍬田村)が男二人で、最後に次のように記されている。
右之銘々拙寺 旦那ニ紛無御座候。依之寺印形奉差上候処少茂相違無御座候。為後日仍而如件
下総国香取郡飯笹村 地福寺 印
同国 同郡 同村 満福寺 印
同国 同郡 同村 瀧門寺 印
同国 同郡一鍬田村 妙福寺 印
地方
御役所
真言宗人数
惣〆弐百五拾八人 内男百弐拾八人女百三拾人
右之通真言宗人別相改候処、不審成者壱人茂無御座候ニ付、帳面相仕立差上候通、少茂相違無御座候。為後日仍而如件
村中両宗合テ
弐百八拾壱人 男百四拾人 女百四拾壱人
と、日蓮宗檀徒の人数が二三人であり、真言・日蓮両宗を合わせた総人数が二八一人であることがわかる。
なお、何歳以上を対象にしたものかは不詳である(八〇歳以上と思われる)が、別に『老人別書上帳』があって、それは次のようなものである。
老人別書上帳
下総国香取郡飯笹村
繁右衛門父久兵衛 年八十九歳
佐左衛門祖母もよ 年八十七歳
〆老人弐人
右之通当子年老人別相改奉書上候通り、少茂相違無御座候 以上
御領分下総国香取郡飯笹村
名主 五左衛門 印
天保十一子年(一八四〇)三月十二日
下総国香取郡飯笹村
百姓代 五右衛門
同断 久左衛門
組頭 源太左衛門
同断 元右衛門
同断 九兵衛
名主 五左衛門
地方
御役所
改めて述べるまでもないが、真言宗檀徒の人数は男一二八人、女一三〇人で、合わせて二五八人である。
日蓮宗の人別改帳についても同じ様式で綴られていて、
下総国香取郡仲佐野村 妙道寺 印
〆人数拾五人 内男七人女八人
下総国香取郡多古村 本蓮寺 印
〆人数八人 内男五人女三人
日蓮宗人数惣寄
〆弐拾三人 内男拾弐人女拾壱人
地方
御役所
この『老人別書上帳』に記された二名は、前記二冊の『宗門人別帳』に含まれない。したがって、天保十一年当時の飯笹における総人口は二八三人ということになる。
さらに、これから七年後の弘化四年に書かれた『飯笹村諸向御用人馬勤方入用取調帳』の末尾には「家数六拾軒、人別弐百九拾三人」とあって、一〇人増えているが、それにしても昭和五十九年十月現在の八六二人に対して、三分の一の人口である。