故菅澤子之助翁の資料に、天文(一五三二~五四)、弘治(一五五五~五七)ごろの人物として中将菅澤小源太輝貞、半田能登守貞澄、飯塚石見守長胤など、当集落に現存するのと同姓の人物も見えるが、これらの系譜は、他の資料・文献のうちに見ることはできない。
次のことは千葉氏一族につながってくるものであるが、『千学集抄』の「惣代七社の事」の章に、「原の初め、正月十三日頼道生れ給う。初湯の上、ゆづり葉一本ふりかかり、目出度き事なればと、原の紋は九曜のゆづり葉をなされけり、海上太郎、海上庄をば不入りにと、原十郎常継について申受られけり。常継申されければと、即ち不入りにと落付きぬ。その礼として海上の紋所、鶴を原十郎常継に参らせけり、その事によってゆづり葉を加へられき、此の分佐倉御本城の上様胤富より仰出されけり。」とあり、この原十郎常継なる人物が飯笹に関係を持つようである。
判官代千田親政が頼朝蜂起の時に捕えられ、千葉氏に滅ぼされて後、このあたりは原常宗の領するところとなったことはすでに各項で触れているが、原常宗の子が常継であり、常継の次男が常次で、常次の子の家房から初めて飯笹(竹)を名乗るようになる。そして泰支、重宗、重近と続く(神代本千葉系図)。なお、家房の従兄に当たる常光は大原を名乗り、大原常光と称している。
以上のことを系図によって見ると、次のようになる。
飯笹氏系譜(神代本千葉系図)
徳川幕政下の統治者
次に、徳川時代になってから当地を知行地とした旗本と、天領といわれた幕府直轄地の治政に当たった代官の各家について、ほぼ年代を追って次に述べる。
本間氏(寛政重修諸家譜より)
なお本間氏は、多古町域における他の知行地として石成・次浦があった。そして、飯笹での知行高は二十六石三斗一合であった(『旧高旧領取調帳』)。
朝比奈氏(断家譜より)
このようになっているが、『寛政重修諸家譜巻第七百五十八』の泰勝の項に、注釈として、
今の呈譜、泰勝が子三人、長男源右衛門某、二男百助某、三男を資重とし、源左衛門某は泰勝が家を継、万治二年に死し、嗣なくして家たゆ。
二男百助某は泰勝が遺跡の内千石を分たれ別家となり、是より四代の孫百助義忠に至り、宝暦元年八月二十三日死す。其男万之助義豊失心して植村千吉を殺害し、自殺して家たゆといふ。
然れども百助某は寛永系図朝比奈第三の系図及び諸記録を按るに、朝比奈源六正重が二男にして、正重が長男九兵衛某及び百助二人、承応二年に某遺跡を分ち賜ひ、百助が子孫百助宝暦元年に至り家たゆ。
是によれば彼百助をもって泰勝が子にして、資重が兄とするもの諸史にあはず。元より時代に於ても論を待ずして其誤知るべし。又長男源右衛門の如きも寛永系図に所見なき時はこれ亦疑ふべし。
よりてともにこれを載せずといへども、しばらく家説を存して後勘に備ふ。
とあり、また、同系譜中に下総国香取郡の采地を受けたことについての記述は見当たらない。しかし、現存の古文書中に朝比奈主殿(享保六年)、同百助(寛延四年)、同源六郎(宝暦十一年)などの名が見られ、萩原平兵衛家をはじめとして朝比奈氏にまつわる伝承が多く受け継がれているが、何よりも、地福寺に残された朝比奈父子の墓碑と六角観音の存在(後記)が、同家と飯笹とのかかわりを決定的なものとしている。
寛延四年(十月二十七日改元、宝暦元年)八月二十四日、旗本朝比奈家の江戸小川町の屋敷には、当主義忠の葬儀のため親族が大勢集まっていた。
同家の家敷内には昔から稲荷様が祀られてあったが、何かの都合でこれを取り払ってしまったところ、それ以後義忠は、ものに憑かれたようになり、槍や刀を振り回してあばれることが多く、家来たちがやっと取り鎮めると、こんどは、呆然として腰を下したままいつまでも虚空を見つめているというようなありさまであった。こんな状態の中での葬儀であるところから、親戚一同はこの日、何やら不気味なものを感じていた。
五つ半というから午前九時ごろのこと、参会者の予感にたがわず、前代未聞ともいうべき惨劇が起こった。嫡子万之助(義豊)が、縁側に腰かけていた義弟千吉に突然襲いかかり、背後から袈裟がけに斬りたおしてしまった。続いて万之助はその足で仏間に走り、義忠の湯灌(ゆかん)をしていた家老の松田常右衛門と継母ぎのを一刀のもとに斬り捨て、さらに下女や乳母たつなどをつぎつぎに殺害し、合わせて六人の人命を奪ってしまったのである。
次に万之助は妻とえを探して玄関まで出たが、そのとき祖母の栄寿院に声をかけられた。「これほど人を斬ってどこへ行く。すでに切腹の覚悟はできているであろうな」と。すると万之助は「いうまでもない」と答えるや、即座に腹を切った。苦しむ万之助を見て気丈な祖母はその首を刎ねたという。
このことは、祖母が六十歳の老女であり、吉原の遊女上りであったということもあって、江戸中の大評判となった。
当然ながら、このことによって朝比奈家は改易となったが、江戸では、これも稲荷様の祟りであると噂されたという(随筆『窓のすさみ』)。
以上のような事件のあと、朝比奈家では祖母栄寿院と万之助の妻とえの二人が生きのこった。そして二人は同家の知行地飯笹を隠棲の地と定め、江戸を後にした。傷心の二人が飯笹を選んだ理由はわからないが、やがて、当地の萩原平兵衛家へその身を寄せることになる。
代々の主家の不幸に際して村民の同情も深かったのであろう、二人とも、村人たちに大切にされながらひっそりと天寿を全うしたと伝えられ、字宿ノ台北部に「朝比奈館跡」と称する場所もある。
いま区有文書として残る『五人組御仕置帳 宝暦二年壬申三月 総州香取郡飯笹村 佐々新十郎様御役所』とある文書の末尾に、一文があり、そこには次のように記されている。
述懐
寛延四年未八月廿二日、先御地頭朝比奈百助様病死被成、同廿四日若殿万之助様御切腹被成、家老松田常右衛門御手討ニ被成候。
同十月十二日御評定相極、御家断絶致候。
同年十二月十五日当殿様佐々新十郎様御代官所へ御引渡相済申候。其間松野源左衛門様御預り被成候。 御引渡被成候。
このようにして、十二月十五日をもって朝比奈氏の知行地は新代官佐々新十郎へと引渡された。
佐々(さっさ)氏 新しい代官佐々氏は年貢の徴収に当たって、それまでの定免法を改め、検見法をとったようである。
貢納について宝暦二年文書『畑方反別帳』の末尾にある「一札之事」には、次のように記されている。
一、当村之儀先年より御水帳無之、無反別ニ而罷在候得共、先御地頭様御知行之節ハ、先年より御定免ニ而御年貢米上納仕来候。
然ル所佐々新十郎様御支配所ニ相成、当年御検見被為遊候ニ付、百姓銘々田畑居屋敷取持分反別相改メ差出候様ニ、御支配所様より被仰付候ニ付、此度村方惣百姓立会内吟味之上、銘々持分之田畑居屋敷反別相改、帳面仕立、御役所様江差上申候。
尤右貴殿方相改被成候ニ、少たり共依怙贔屓成被致方決而無之候。然ル上ハ、当年御代官様御廻村之上御検見被為遊、惣百姓銘々御取箇被仰付候共、其節ニ至り少茂私共申分無御座候。
此度田畑屋敷反別相改帳向後末々ニ至迠御取用被成、御年貢米被仰付候儀、惣百姓得心之上連判証文差出候上ハ、少茂相違成義無之候。為後日連判証文仍而如件。
佐々氏の系譜を『寛政重修諸家譜』によってみると、次のようになっている。
朝比奈氏のあとに入った代官佐々新十郎とは、右の系譜に「延享二年五月四日御代官となり――」とある新十郎長純のことと思われる。
なお、『旧高旧領取調帳』の記載を見ると「代官支配所(分) 三十六石五斗三升九合」とあり、この石高が佐々氏の知行高であったようである。
松平氏 右に述べた代官支配所のほかを、さきの本間氏とともに知行地としたのが松平氏である。とくに同家は多古藩主松平氏とその祖先を同じくし、飯篠に陣屋を構え、この地で四百石を超える石高を知行していた。
その系譜は次のようになっているが、康盛以前については『寛政重修諸家譜』により、康豊、康正、康国については久松定武(愛媛県松山市)、松平千秋(横浜市)両氏、ならびに早稲田大学史編集所の資料によらせていただいた。
以上が松平氏系譜のあらましであるが、次に、残された古文書史料によってもう少し詳しくその内容を見ることにする。
ここに松平氏が陣屋を構築するにあたって、飯笹村は夫役として多数の普請人足を差し出し、棟上げ当日は村役人が祝儀に詰めている。それらのことは、次の萩原五左衛門家文書「控帳」によって明らかにされる。
一、惣木寄人足凡千人程も差出
一、御陣屋地形土方人足者上総方五ケ村 此所 両も上総請土方扶持代として御年 。外ニ金 両弐分三朱ト三百七拾弐文、人足小家掛道具代金 石引取駄賃諸品手当ニ被下置候事。但し
一、飯笹村之儀者陣屋元之事故、人足限り相分不申候事。右之通村々共人選並御普請人足共差出し弥皆出来ニ相成候事。此節相勤候村役人名前左ニ書記置候事
飯笹村名主萩原五左衛門、組頭九兵衛、元右衛門、源太左衛門、百姓代久左衛門、金兵衛也
右之通御陣屋皆出来ニ付、棟上ケ御当日村役人共御祝儀ニ相詰候事
続いて、殿様が初めて陣屋入りをしたときの様子を同文書は記しているが、それは次のようなものであった。
一、天保十三寅年七月十二日御殿様初而御在邑被為遊候ニ付、道中御行列之儀者拾万石格式被仰付、弐本道具御長柄御打物其外 毛三本中道具あほゑ(葵)御紋附誠ニ珍ら 其外赤坂御手廻り且御着之節御供中村弥一右衛門、藤田八右衛門様其外拾人程御侍分
松平氏はこのように十万石の格式行列をもって飯笹陣屋に入り、以後明治維新まで代々この地を知行地としたが、同家の上・下総における村名と総高は次のようになっている。
下総上総両総州村々正高扣 但村数八ケ村
一、高四百弐拾三石六斗九升九合 飯笹村
一、高千九拾弐石弐斗壱升三合五勺 篠本村
一、高四百九拾石壱斗九合 関戸村
一、高三百四拾八石五斗三升五合 栗生野村
一、高三百四拾五石九斗弐升七合 天子丸村
一、高六拾四石八斗六升壱合九勺 下千田村
一、高百三拾七石六斗五升五合七勺 坂本村
一、高弐百四拾七石七斗壱升七合五勺給田村
両総州高合三千百五拾石七斗壱升八合六勺
内下総方三ケ村合弐千六拾石弐升壱合五勺
内上総方五ケ村合千百四拾四石六斗九升七合壱勺
なお同文書は、松平氏知行地の武州秩父郡一一カ村についても記しているが、ここには省略した。
当時の飯笹村は、国役(こくえき)としての野馬・鷹匠(狩)人足や、助郷(すけごう)であるために差し出す人馬、また、陣屋が置かれたことや参勤交代(交代寄合の職にあった松平氏はこの義務があった)などによって負担する諸役が多大で、近年の農村窮乏に加えて農民の困惑はいっそう増すばかりであった。その様子は、次の文書によって明確である。
弘化四未年(一八四七)八月
飯笹村諸向御用人馬勤方入用取調帳
下総国香取郡飯笹村
乍恐以調書奉願上候
一、御領分香取郡御陣屋下飯笹村名主組頭百姓代一同奉申上候。
当村之儀先年より御野馬御鷹御用人足、其外加茂村助郷継立人馬、且又御代官所御用御改革諸向共御用相勤候村柄ニ御座候処、近年村方小前百姓必至と困窮致誠ニ難渋仕候折節、去ル丑年御陣屋御取建ニ付、御在邑御参勤共年々被為在、其外御家中様方御登り下り共人馬多分相懸り、困窮之百姓弥以難行立、小前之もの共日々相歎罷有候次第。
且又村方家数六拾軒之処拾六七軒程潰家同様ニ相成、其外独身之もの者御用も不勤、当時相勤候家数凡四拾弐三軒程に御座候間、此姿ニ而者百姓相続難相成候ニ付、無是悲諸向御用相勤候次第左ニ取調書認メ奉差上候。
何卒御披見被下置、困窮之百姓往々相続相成候様、幾重ニも御賢察之程伺奉願上候 以上
一、高四百弐拾三石六斗九升九合 飯笹村
内高四石五斗弐升余
去ル丑年より御陣屋新規御取建ニ付御収納減高。但し御公儀高懸物諸役共高引ニ者無御座候事
家数六拾軒
人別弐百九拾三人
潰れ家も一五、六軒あり、このままでは百姓を続けることができないと訴え、以下天保九年から弘化四年までの一〇年間にわたる野馬御用、土手普譜、鷹御用、加茂村助郷継立人馬などにかかわる人足数や諸入用(費)が、一年ごと、項目別に詳細に書き綴られている。
これに対して飯笹村の一年間に要する諸入用は、次に示すとおりわずか一両二分余にしかすぎない。
村方年中諸入用取調書
年中村方作祈禱入用分
一、銭 三貫文
普化宗留場所
一、銭六百七拾九文
年中村方諸方へ差出し候足間賃銀分
一、銭拾五貫六百八拾九文
村役人江戸出府路用借分共
一、金壱両弐分弐朱ト三百四拾八文
九ケ村小組合年番村より諸向入用懸り度々ニ割出候出銭分
一、銭弐貫五百三拾八文
年中村入用筆墨紙代分
一、銭五貫九百七拾弐文
下総三ケ村相領村役人其時々談合入用分
一、銭壱貫三百五拾四文
年中御免勧化其外定例取究候勧化分
一、銭五貫三百廿四文
〆金壱両弐分弐朱ト銭三拾四貫九百弐拾文
右之通当村方諸入用銭壱ケ年分取調候処相違無御座候。尤年ニ寄少々宛過不足之儀有之候得共、凡右之次第ニ御座候事
諸向勤方人足
惣〆弐千九百五拾三人 馬百四拾壱疋
外ニ御用地御新田請所境土手人足
〆千三百人 是ハ賃銀なし
諸向諸入用金銭八
惣〆金百四拾弐両壱分壱朱ト銭六拾七貫五百八拾五文
惣金ニして
金百五拾弐両弐分三百四拾九文
御領分
下総国香取郡
御陣屋下飯笹村
弘化四未年八月
百姓代 新兵衛 印
同 新右衛門 印
組頭 久左衛門 印
同 源太左衛門 印
同 元右衛門 印
名主 九兵衛 印
御郡方
御役所
ここに載せたように、飯笹村の一年間の諸入用一両二分余に対して、過去一〇年間に四、二五三人(うち一、三〇〇人は賃銀なし)の御用人足と、一五二両を超える金銭を負担したわけで、このことがいかに農民を苦しめたことか、想像に絶するものといえよう。