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高皇産霊神社(大六天社)

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 字作山(さくやま)五五四ノ一にあり、応永元年(一三九四)に創建され、当時の別当は多聞院万福寺の住職教覚で、安永二年(一七七三)に惣村中の寄付によって急坂の参道を石段になおしたという(菅澤子之助記録)。明治十二年御影石の鳥居が建立され、石碑にそのときの寄付者名が刻まれているが、飯笹のほか、間倉・一鍬田・本三倉・谷三倉・高津原・船越・篠本・西田部・二又・大室・西沢・菱田・住母家・多古・大原・加茂・白升の各旧村に一名ずつの世話人があり、時の有力者に寄付を仰いだようである。

大六天社

 石段は御影石でつくられ、上下合わせて六二段である。石段途中にある常夜燈には「弘化四年未(一八四七)九月吉日施主大三川元右衛門 郷中」とある。
 鳥居前右手の手洗石は明治二十九年一月に奉納されたものである。
 社殿の屋根は大正十二年にそれまで茅葺であったものが銅板葺に替えられた。
 鳥居前には伊藤九兵衛家寄進という二個の円形大石があり、小さいものは五斗目(七五キロ)、大きいのは一石目(一五〇キロ)あるとされ、かつて青年たちはこの石を持ち上げることによって、その力を競いあったという。
 社殿の前に下げられた鈴には「弘化乙巳(一八四五)十一月初卯 大六天御宝前 下総飯笹陣屋大谷進太夫」とある。
 飯笹区有文書の中に宝暦二年から元治二年までの「御奉社日誌」と、文化五年から明治十五年までの「御奉社当番日記」が残されており、地区民のこの神社に対する尊崇の念が書き綴られている。