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五辻稲荷神社

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 字永井芝一〇九一ノ一番地に祀られている。

稲荷神社

 むかし山林原野であった五辻も、軽便鉄道の敷設によって駅(五辻駅については間倉の項参照)ができて以来、大正末期には農産物の一大集産地として人家も増えて一村を形成するほどになり、下総・上総の国境いで五つの辻が集まる場所として知られていた。
 この社には記念碑が建てられていて、大正七年七月に勧請されたものであることがわかる。その碑文は次のとおりである。
 
 明治四十四年千葉県はこの地方開拓の目的を以て、県営事業として成田・多古間に鉄道を敷設し、当地に五辻駅を設置するや、人民蝟集実に長大の進歩を成すと雖も、新開地の為神社仏閣なるものなし。此駅前有志相謀り隣村各位の浄財を仰ぎ、大正七年一月吉日を卜し、茨城県笹間町に鎮座する胡桃下稲荷大明神の分霊を勧請し、以て国家安泰、五穀豊穣、子孫繁栄の守護神となす。尓来、神徳普く霊験顕著なり。依って其の起源を永遠に記念すべく碑を建て以てこれを録す。 昭和五年一月
 
 その側に昭和四十九年四月三日建立の神社補修記念碑がある。それには区長木川茂夫、代理山崎明、秋葉文男、委員岡田正次郎、本田敬吾、協力者斉藤弥、高木貞司、大工井口忠治の名が刻まれ、本殿脇にある子安講の一宇には「維大正拾壱年旧一月拾九日新調元五辻女中」とある。
 御影石製の鳥居は昭和二十九年一月に建てられたが、それまでは年々氏子中の有志から木造の鳥居が奉納されていた。
 社前の狐石像一対には「奉納 本村斉藤勝 戸村豊作 石井忠次 本多正美 昭和二十九年一月石工白鳥龍角 高木元三郎 平山房造 斉藤市郎 伊橋謹次」とあり、大師堂に掲げられた額には 「余州三  ごくらくは よそにはあらじこのさとの みのりのこえお きくぞそのとき」と書かれている。