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如意山地福寺 由緒・縁起

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 明治の『社寺明細帳』によれば、
 
     千葉県管下下総国香取郡多古町飯笹字台
                   中本寺蓮福寺末
                     真言宗 地福寺
  一、本尊   地蔵菩薩
  一、由諸   永禄十二己巳年(一五六九)二月実蓮僧都法子増呼創立開基之由古老ノ口碑ニ存ス
  一、境内坪数 四百拾九坪 官有地第四種
  一、境内仏堂 壱宇
     阿弥陀堂
      本尊 阿弥陀如来
     由緒 永禄十二己巳年二月創立ノ由古老ノ口碑ニ存ス
     建物 間口弐間 奥行弐間
  一、檀家戸数 参拾六戸
   (符箋)大正十年十二月二日住職ニ任ス、権律師篠崎清憲
 
と永禄十二年(一五六九)の創立のことが記されている。一方、口伝では飯笹の出身で剣の始祖と崇められる飯篠長威斎家直が、晩年の長享元年(一四八七)四月二日に建てたとされ、また、地福寺過去帳の冒頭には「『神刀流元祖伊賀守平長栄飯笹地福寺を草創す』右は本書は虫喰いはげしければ、文化十一年(一八一四)三月当山住職宥沢識す」と記されている。

如意山地福寺

 山門を入って二〇メートルほどのところに本堂がある。建坪一八・五坪で、昭和四十二年に改修された。内陣には本尊の地蔵菩薩を中心に、合併した満福寺・瀧門寺の本尊が安置されている。
 改修のときに屋根裏から発見された二枚の棟札があって、その一枚の表には、「元禄十四年辛巳年(一七〇一) 梵字奉尓造立不動尊御堂 奉建之客殿庫裡成就下総国飯笹村瀧門寺杲長 下総国飯笹村地福寺法印権大都杲喻 大工上総国藤原氏境村庄左衛門 木挽上総国上田村清左衛門 茅師下総国桜田村清兵衛」とあり、裏には「諸旦那 金一分権左衛門 金一分平左衛門 金二分縫右衛門 金一分平右衛門 金一分四郎兵衛」など大勢が記されているが、以下の名は判読できなかった。
 もう一枚の棟札はそれよりかなり古いもので、表に弘和三庚申年(一三八三) 「奉尓造立不動明王御堂一宇成就所別当瀧門寺法印       誡師          」とあり、裏には梵字と「平左衛門和泉之助」の文字がわずかに読み取れるのみである。二枚とも、瀧門寺の造営に関するものである。
 客殿は本堂から廊下でつながっている。庫裡はその客殿と同棟の東側にある。客殿、庫裡合わせて約五〇坪である。
 寺宝としては、地頭朝比奈氏寄進といわれる曼荼羅がある。
 当寺は、年代は明らかでないが享保十四年(一七二九)以前に火災を出している。そのことと、歴代のうちで三十八世と三十七世の間に無住であった期間があり、その間に大切な古文書が花火の製造材料とするために盗み出されてしまったということで、由緒などをたずねる重要な手がかりが失われてしまった。
 そこで、次に寺域・境内に残された墓石・石塔類などを見ることによって、当寺の昔日の姿をできるだけ明らかにしてみたい。