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旧東雲山瀧門寺

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 字タキ一二二五番地周辺にあったとされ、天平年中(七二九~七四八)、僧行基が東遊のときこの地を訪れ、飯笹字瀧(たき)において心魂をこめて二尺余の不動明王を刻み、その不動像を本尊として建立したのがこの瀧門寺であるといわれている。この口伝に従えば、行基の入滅は天平二十一年(七四九)二月であるから、瀧門寺建立はそれより古く、法隆寺夢殿が再建され、諸国に国分寺・国分尼寺の建立がすすみ、東大寺も建立に着手されたのと同じころとなる。とすれば瀧門寺は飯笹のみでなく、多古町における最古の創建ということができよう。
 いま瀧門寺の寺跡とされる場所を見ると、敷地約三ヘクタール、東・北・西の三方は急傾斜の山林となっていて、つい近年までこの山間から清水が流れていた。瀧という字名もそれに由来するのであろう。かつては滝が流れ、庭園には池をしつらえることもできたろうし、参詣人は自然の流れを手洗い水としたのであろう。
 古老によれば、頼母子講(別名不動資金講)なるものがあり、毎月二十八日に参籠して講を開き、その利益金をもって不動尊堂維持費に充てていたが、不心得な者が私欲のために流用したり、ある住職によって密かに寺宝を遠隔の地(京都という)に売り払われるというようなことがあったため、さしもの堂宇も荒廃し、ついには地福寺と合寺のやむなきに至ったのだという。
 次に、現在は地福寺に所蔵されているが、かつて瀧門寺にあった木版「不動縁起」を載せる。同寺についての由緒などをたずねる手掛りともなれば幸いである。
 
 仰も阿修羅明王の由来を尋ね奉るに、其上人皇四十五代聖武天皇の朝天平年中の頃(七二九~七四八)、行基菩薩御丈二尺の炎大明王の御像を刻みて当山に安置し賜う。然るより此方九百八十年と喃々とす。此村に大波羅と云えるは昔の   なり。然るに人皇七十六代近衛天皇久安年(一一四五~五〇)に、城主加藤兵庫守の妻虚空蔵尊へ帰依し、ケントウノイチヂを祈る。御尊養とて心経を尽し明王の呪妙法号朝暮の念誦となし往年浅からねば明王様の御威徳増々以て順重なり。噫尊へかな妙なるかな。
 或夜兵庫守夢見すらく、本尊厳然として御告賜く。汝尊経到つて深し、汝煩脳妄想は覆ること雲の如し、能く隠すが如く則是れ諸魔の一なり、諸魔とは怨魔、天魔、煩脳魔、死魔等の種類なり。皆煩脳を本元として汝を魔界に引かんとすれども、我憤怒降魔の直相を以て諸魔を災伏と破るが故に近づく能はず、汝原頭の具現心の如く得ざすべしと。
 遂に睲め愈々苦行尊拝の心妙にして伽藍興立の功妙驚かす。然しより此方五百六十余年とす。誠に顧れば有為転変の世のならい、栄枯盛衰不常にして興敗時に従ってあり、昔盛なるは衰へ昔衰えたる今盛なるに名を聞かざるあり、皆是興敗は転変の出す処なり。喃すれば其上盛なればとて末代栄うる者なりや、年月日をつんで、繁栄たる城廓も亡び、堂々たる伽藍も散乱し、崖々たる古跡のみあり。予が年来の歎き此構の頽れたるにあり、更に新に不動の明王を造立し千仏の前立にせんこと乞う。
 仰ぎ願くば十方の檀那の志あらば年来の願望終に満てんことを希う
 
 この不動縁起木版は宝永年代(一七〇四~一七一〇)に作られたものであろうと思われるが、まぼろしの寺といわれる瀧門寺の姿をかなり細かに伝えているといえよう。この後、十方の檀那への呼びかけもむなしく、地福寺に合寺される運命となった。