天保十三年(一八四二)松平因幡守康盛によって構えられた陣屋である。
康盛の六代祖勝元(のち康元)の母「お大」伝通院は、初め岡崎城主松平広忠に嫁して家康を産んだがゆえあって離婚し、その後尾張阿古居の城主久松俊勝と再婚して勝元、康俊、定勝などをもうけたことは既に述べた。この長男勝元(康元)が、飯笹松平氏系の祖となるわけである。
家康は、天下を統治して江戸に幕府を開くにあたってこの異父弟たちを重く用い、松平の姓とともに、長男勝元には自分の諱の字を与えて「康元」と名乗らせた。そして、江戸から近い下総国関宿に四万石を与えて房総北辺の固めとした。
その後康元の孫忠憲の代には無子収封。弟康尚が名跡を継いで一万石を賜わったが、その孫忠充は乱行のため城地没収となった。忠充の子康顕はその家柄のゆえに五千石を知行したが、父よりさき、二十二歳で没した。康顕には子がなかったので、弟の康郷が家督を継いだ。この康郷は明和二年(一七六五)千石の加増を受けて六千石となり、このときに飯笹の地を知行地としたようである。
康郷の孫が康盛であるが、どういういきさつから飯笹に陣屋を築くようになったかは詳かになっていない。康盛の知行地は上総千石、下総二千石、武蔵三千石の都合六千石である。わずか四百石余の所領である飯笹に陣屋を建てたのは、どういうことからであったのだろうか。
飯笹陣屋跡は字高野二七〇ノ二番地以北の、約五ヘクタールあまりのところとされている。そこには土塁の跡、馬場の小土堤、屋敷跡らしいものがわずかに残っていて、現在一軒ある住居の周囲はすべて山林と畑になっている。
飯笹陣屋跡
集落の「椎ノ木」からは東へ約二〇〇メートルはなれ、馬堤という耕地の中の道を左手に曲り、そこからさらに右へ坂を登ったところに間口二七、八メートルの大長屋門があった。その間を入ったところは広場で、長さは一〇〇メートルほどあり約一、〇〇〇人が収容できたという。また、数棟の長屋が建てられていて、村人は「おながや」と呼んだ。右側には二の門があり、小高い所に館(やかた)があった。
門外には、左右に役人の詰所と上級家臣の住家数棟や武道場があったが、この武道場はつい近年まで三橋家に移築されて住居とされていた。同家にはこの道場にあったという稽古用具がいまも保存されている。
館の奥にも幾棟かあり、ここを「若御殿」と呼んだ。若御殿の後には馬場があり、小土手でへだてられた後方には「作事場」があって、大工、左官、足軽、中間たちの住居となっていた。このあたりに裏門があったというが、字「そようじ」へ分かれる道の少し手前あたりかと思う。さらに一〇〇メートルほど奥にいわゆる白州があり、獄舎もあった。
若御殿の上の丘に稲荷社が祀られてあり、二月の初午(はつうま)の日には一般の参詣が許され、そのうえ赤飯などの振る舞いもあったことから領民はこぞって参詣し、ふだん見られない陣屋の中は大いににぎわったということである。
館跡といわれているところはもう一カ所あって、字横堀一〇〇〇番地を中心とした約一・五ヘクタールほどの場所とされている。北が急な傾斜地となっている二〇メートルほどの高所である。いまは一部が山林、一部が畑となっていて、山林中には小土手の跡があるが、いわれなければ気づく者はない。
なお、このほかに字四角山には四角山砦があったと伝えられている。千葉氏の支砦で、常胤の五男国分五良左衛門尉胤通が矢作城を守った天正のころ、上総国正木左近太夫に攻められ、佐原の伊予入道は大いに奮戦したが、敵勢に抗しきれず潰滅したという。