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村の文書

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 萩原五左衛門家文書
 飯笹陣屋の項にも一部載せたが、これは名主五左衛門が覚書として書き記した「控帳」である。
 当地に陣屋を構えた松平氏の動向や、野論の裁許状請取りのことなどが記され、貴重な文書といえる。
 まず、松平氏にかかわることがらを書きとめたものから見てみる。
 
   御普請骨折ニ付
一、外村役人九兵衛、元右衛門、源太左衛門、百姓代久左衛門、金兵衛五人之者江者勤役中米弐俵宛年々被下候趣被仰渡候事
 
 村役人に対してその任期中、毎年米二俵ずつ下さるというものである。
 
一、天保十五辰年六月御在邑之節日光御参詣     、夫より関宿江御立寄御仏参被為遊、夫より御船ニ而   御上り被成、夫より吉岡宿江継立、飯笹御陣屋江御着ニ候事。
 御供立御六尺手廻り之もの者関宿より江戸江差戻し、御手人斗り滑川江村々より人足差出置手配仕、差支無様取計へ相済候事
 
 日光参詣をした松平氏(康盛か)の帰着までの様子がよくわかる。
 
一、御殿様御在邑之節者、正月七日御年始申上候ニ付、萩原五左衛門外名主組頭百姓代一同罷出、御上様へ者上鯉弐本差上ル也。地方御役所江者紙五状、其外居村之御方江者弐状宛も年始ニ村役人より遣し候事。御年玉其時之見斗へ可然事。御殿様御参府御留主之節、右之品御年始者入不申候事。但シ御在邑之節斗りニ候事。
 
 村役人が松平氏への年始挨拶に当たって、鯉を二匹差し上げている。
 
一、同辰年御在邑後御女中様方駕籠三挺罷越     向右之と者格別ニ模様替ニ相成、侍分 御次より外江入事不相叶候。 無附伊橋外ニ米弐俵宛格式勤役中被下  事。萩原五左衛門屋敷年貢諸役 儀永代除   。年々御年貢米壱俵諸役除者永弐百五拾文両   皆済目録江書出し、御引方ニ相成候趣被   間、其段於後年ニも相心得候様、此所ニ控置候事
 寅年(天保十三年)
一、初在勤之節、前々武着道具不残五左衛門宰領被仰付、千住宿ニ而貫目相改、夫より市川御番所ニ而弓鉄炮其外御玄関御鎗品々諸道具御改相済、鉄炮之儀者九挺より外不相成趣承知仕持参致候間、無間違相通り申候。
 御長持七棹篠本村作右衛門持参、行徳廻しニ而中川通り宰領相勤相下り候。御番所ニ而書面不足ニ付迷惑致候趣、以後者相心得差支      心得候事。此節者御着之当日九ケ村者不  、役人方不残御出迎ニ罷出候ニ付、其段申上候。
 使ヲ以付届ニ罷出候事。此節多古御陣屋よりも御使者御出ニ候事。伊野村役人案内ニ而被参候   。篠本村御相給村役人四給名主方一同御出迎ニ罷出候。誠ニ見物之老若男女莫太之儀候事。
 
 右の二件は、名主として心得ておかねばならない重要な事項であった。
 
一、翌卯年(天保十四年)御参府、五月廿三日御発駕ニ御座候処、両総州村役人者夫々役儀被仰付、其外夫人並かも迠見送り人馬下サ方三ケ村より差出し、無差支御参府相済候事。
 尤も諸在勤之節者、新宿御昼飯大和田御泊りニ而、二日御道中御参府之節者、飯笹立酒々井御昼飯臼井御泊り、船橋昼飯新宿泊り、千住御昼飯御老中廻り相済、三日道中ニ而御上屋敷江御着仕候事。
 
 松平氏の参勤交代の道中は、このような日程によったものである。
 
一、天保十五辰年七月十八日江戸出立日光御参詣被為遊。右十八日松戸御泊り、十九日小山御泊り、廿日徳次郎御泊り、廿一日二日鉢石御泊り御参詣被為御済。其夜又同所ニ泊り、廿三日宇津宮泊り、廿四日仁連御泊り、廿五日関宿御昼飯昼後御乗船ニ  御泊り、廿六日朝滑川御上り陸吉岡村継立飯  
 
 この日光参詣は、前月と比べて往路の道順がよく記されている。
 
一、弘化二巳年(一八四五)六月朔日御参府ニ付、五月廿八日御     中村弥一右衛門(この名「武士の帰農と『送り状』」に後出)様御迎ニ罷越候。其外御侍分四人御徒士弐人罷下り、御六尺八人参ル、其外御手廻り之儀者村々より撰人ニ而   済候。御泊り臼井新宿、三日道中ニ而御着ニ候事。
 御長持者四棹廿七日ニ行徳廻しニ相成、斉藤治左衛門才領致差出ス。其外御女中方者御駕籠三挺六月三日御出立、是又千住通り伊橋官蔵様附添罷登り候事。
 御手人上下七拾人御同勢ニ御座候。宿人足廿五人ニ本馬四疋軽尻五疋之御先触ニ候事。御女中方者別段御先触かご三挺本馬弐疋相成候事。夫人足之儀者、前御参府之時壱人ニ付弐朱宛御手当被下置候処、此度者壱分宛被下候趣ニ付一同安心仕候事。
 上サ方惣出人廿弐人江戸送迠御供、下サ方拾七人江戸迠御供也。下サ方村々者壱両人宛根木名迠御見送り  迠者萩原五左衛門壱人上下ニ而御見送り立帰り申候。外何人も右之通り立帰り申候。根木名迠ハ弐人程差遣ス事。
 
 これも江戸参府の模様を記したものであるが、人足の賃金は一人につき一分(ぶ)で、前回の倍額となっている。
 以下の文はそのまま読んでいただきたい。
 
一、嘉永五子年六度目御在邑、丑年六度目御参府也、御女中様方御出也。臼井御泊り新宿御泊りニ而千住通り御帰り。大木伊助払 、御用人中村弥一右衛門様御出、女中駕籠四挺此節者両国橋より
一、嘉永七寅年七月六日御着、但シ七度目御在邑也。立川通り八幡継立ニ相成り、臼井御泊り、正八ツ時御陣屋江被為入候事
 
一、文政十二丑年(一八二九)より名主役相勤、弘化二巳年(一八四五)迠十七年相勤、休役ニ相成申候。尤休役之節為御褒美と御目録弐百疋頂戴仕候事
 其外名字格式之儀者、安政四巳年迠御用相勤、同年五月ニ隠居願御聞済ニ相成、願之通り被仰渡候事
 
一、安政二卯年(一八五五)より御加増壱俵まし、内蔵元志ゆうかい弐俵宛被下置候趣御書付頂戴仕置候。為後年此所ニ控置事
 
一、御殿様御在邑ニ付諸方道普請仕候節間数改候事
一、千三百四拾間也、是ハ五辻木戸より庚申塚迠之間分
一、千弐百四拾間也、是ハ間倉台傍示杭領分境より村方佐左衛門前迠之間数也
   此訳
 八拾間傍示杭より庚申迠有之事
 弐百間庚申より者ゞ(ばば)先入口迠有之候事
 四拾間者ゞ(ばば)先森之内有之事
 弐百廿間者ゞ(ばば)先東取付よりわき三ツ又迠御座候
 六拾間わき三ツ又より大花坂ぎわ迠有之事
 百四拾間大花より平兵衛下三ツ又迠有之事
 五百間平兵衛下より佐左衛門前迠有之候事
 
尤佐左衛門前より御陣屋下迠者改不申候ニ付、是ハ追而相改可申候事
且又間倉台傍示杭先入会地之場所、間倉山境迠者改不申候ニ付、追而改可申候事。年々当村ニ而五拾間計之処草斗り刈取普請仕置候。改り候節者間倉村へ可申談事。此上共無様御普請之節者、惣人足壱人何間と割付人別割ニ致シ、鬮(クジ)取ニ仕候而宜敷御座候。左様無之候而者、はか取不申候
 天保十五辰年七月二日日光より御廻り御在邑之節相改ル事
右之通御普請場相改人足割ニ仕無差支取斗へ成就致候事。右御在邑之節者村本道通り、御参府之節者椎木より加ぐら谷通り御廻り御通行被成候事
 
 先に記したように、天保十二年に松平氏が飯笹を陣屋地と定めてから、安政二年までの十六年間に書かれた一名主の覚え書ではあるが、飯笹の歴史の一端をかいま見ることができよう。
 武士の帰農と「送り状」
 明治三年九月から十月にかけて、旗本や御家人とその家来たちには、生活の地をかつての主人の知行地に求めて帰農する者が多く、松平氏陣屋の所在地である飯笹にも八名の帰農者が入った。
 しかし、維新の混乱の中で、ごく一部の者は塾を開くなどして村人に学問を教えることもできたが、大半は大きな蓄えのあろうはずもなく、貧困の生活を余儀なくされ、再び東京へ出て行く者が多かった。飯笹でも農業を続けた者一名、塾を開いて子弟の教育に当たった者一名を残すのみで、他の六名は消息を絶ってしまった。
 塾を開いた中村弥一右衛門は、前記の萩原家文書にもあるように、飯笹・松平氏の側用人を勤めた人物であるが、後年弟子たちによって立派な墓石が地福寺(当初は満福寺に建立)に残され、「法性院真如通躰居士 明治三十一年五月二十九日 行年六十九歳」と刻まれている。子孫はその後東京に出たが、かなりの成功者もあると聞く。
 金田円次の子孫は現在なお当地において営々と農業に励んでいる。
 次に、明治三年の帰農に際して、もとの主人から名主に差出された「送り状」を載せる。
 
     送書之事
一、生国武蔵国東京本所林町     中村弥一右衛門
                  午四拾壱歳
  禅宗 東京渋谷祥雲寺 寺中霊泉院旦那
一、生国武蔵国東京青山新屋敷    妻 ミち
                  午三拾四歳
                  忰 寅之助
                  午四歳
                  次男 八十吉
                  午弐歳
                  娘 連う
                  午拾壱歳
                  次女 たき
                  午九歳
                  末女 く免
                  午七歳
 右之者従来拙者家来候処、今般下総国香取郡飯笹村百姓元右衛門請人ニ而、同国同郡同村江致帰農、産業之道相立候旨申立候間、東京府江窺之上永之暇差遣候間、以来其村戸籍江差加可給候。依之送籍一札如件
                                        東京府貫属今川従五位触下
                                            松平勝千代 印
   明治三庚午年九月十三日
   宮谷県御管轄所
        右飯笹村
          名主中
 (裏書)
 表書之通相違無之もの也
   明治三午年九月十日 東京府戸籍調所 印
 
 右に記したほかに同形式の送り書によって、簗田宇右衛門は妻外二名の子計四名で請人は九兵衛。竹中理機は父外五名計七名で請人は源太左衛門。大岡勇記は母と妹の三名で請人は平右衛門。種田繁は妻と二人で請人は金兵衛。土屋甚右衛門は妻女以下四人計六名で請人は三右衛門。小川徳左衛門は伜と二人で請人は多聞院住職。金田円次は妻きちと二人で請人は庄左衛門と、村の各家にひとまず落着いたのであったが、その後は、前述のような結果となったのである。