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人物

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 飯篠(笹)氏
 飯篠氏は飯笹から出た支配者層の武芸者として全国的に知られ、史上欠くことのできない人物であることから、地元に残る確かな史料に乏しいため、すでにある一部の文献によってそのあらましを記すこととした。
 飯篠氏は、下総国香取郡飯笹村から起こった千葉氏の族で、香取神刀流始祖家直は山城守(後に伊賀守)と称し、長威斎と号した。
 長威斎は、当地飯塚宇兵衛(現金兵衛)家の出で、晩年に飯笹地福寺を建てたとされ、香取谷(かとりさく)の地名も長威斎にかかわりのあるものと思われる。
 香取神刀流の武具規格に合致した木刀、棒、薙刀がいまも同家に所蔵されているが、それを見ると、木刀は長さ三尺三寸。棒は長さ六尺で太さは下部が直径一寸、先端部が八分のものである。薙刀八尺三寸。同婦人用七尺五寸。タンポ槍は穂先より石突まで一丈五寸。小太刀長さ一尺八寸(尺寸法のまま)。これが流派の規定寸法であり、飯塚家所蔵の品々はまさにそのとおりのものである。

香取神刀流武具

 文政十一年ごろに書かれた『香取私記』(久保清淵著)には、飯笹(篠)長威斎について次のように記されている。
 
飯笹山城守家直入道長威斎は、もと郡中飯笹村の人、[彼村に旧址あり、]後香取に移て、卒す、[長威斎夫婦の木像は、新寺村、新福寺にあり、]今に、其子孫連綿して、刀術を伝へて、新寺村に居住す、[香取の属村なり、本宮より十町はかり、南にあり、]
武芸小伝云、夫、刀術者、始武甕槌命、経津主命、抜十握剣倒植於地其鋒端之神術、中興、飯笹、得天真正之術、大興起刀槍術
又云、飯篠山城守家直者、下総香取郡飯篠村人也、後移於同州山崎村、自幼好刀槍之術、得精妙、常祈鹿嶋香取神宮、将其技芸於天下、潜称天真正伝神道流、後改号長威斎、中興刀槍之始祖也、
又早雲記に、飯笹山城守家直、兵法の修行を伝へしより、以来、世上にひろまりぬ、此人、中古の開山なりとも見へたり、
又塚原卜伝か父、塚原土佐守、従長威斎天真正伝由、武芸小伝に見へたり、
勢州軍記云、卜伝者、続長威之四伝、新立其流、[家直之子、若狭守盛近、其子若狭守盛信、其子、山城守盛綱、この盛綱、永禄二年に、追野惣持院へ寄附の書あり、卜伝元亀二年に死す、年歴相当る、四伝といへるは、此四代なるへし、猶長威斎より諸家分流せし事、武芸小伝等に委し、]
北条五代記に、鹿嶋の住人、飯笹山城守家直、兵術の修行を伝へしよりこのかた、世上にひろまりぬ、[北条記のこゝろは、鹿嶋明神より、伝へしと云事なり、]此人中古の開山なり、むかし、下総の国香取に、塚原卜伝と云ふ兵法者有しか、是希代の名人、末代におゐて、卜伝か一ツ太刀といひならはせり、
 案に、こは全く、両人の本国錯雑せり、飯篠は香取郡の地名にて、今に飯笹村に長威の旧址存せり、塚原は、鹿嶋郡の地名にて、今塚原村あり、その近くの、須賀村の梅林寺と云へるに、木伝の遺跡伝へありとそ、然れは武芸小伝の如く、家直は下総、木伝は常陸と云を、正説とすへし、
 梅木山不断所と云寺、神宮寺門前の側にあり、飯笹長威入道が、剣術練行の所なり、昔時、入道香取明神に祈請し、参籠百日の間、この所に於テ練行の工夫を竭し、秘術を感得せしとなり、今は荒廃して、唯入道が碑ばかり、人家の側に存せり、[当流家譜に、入道この所にありて、庭上の梅木を撃て、手術を練行せし故に、梅木山と云といへり、]
 
 そして、天保四年小林重規はその著『香取志』に、
 
吾(ガ)神宮(注、香取神宮)の御手洗(ノ)井、古(ク)東方(ノ)山の半腹(ナカラ)に在(アリ)しを、飯篠長威が奴隷(ヌレイ)此所に来(リ)汚(ケガレ)たる馬を洗(アラフ)、神(カミ)甚(イタク)怒坐(イカリマシ)て彼(ノ)奴隷馬と共(ニ)忽(タチマチ)死(シ)し、又一夜(ノ)間に山自然(オノヅカラ)崩(クヅレ)て此井を埋(ウヅム)、故(ニ)他所(アダシトコロニ)設(マウク)之(ヲ)と云(ヘ)共水不(ズ)清(キヨカラ)、故(ニ)今(ノ)所(ニ)移(ウツセ)り、是より神宮(ニ)到(イタル)坂を御手洗坂と云(フ)、
附(テ)言(フ)、飯篠長威、始(メ)伊賀守家直(イヘナホ)と云(フ)、同郡飯篠村に居(ヲレ)り、故有(リ)て彼処(カシコ)を去(サリ)、丁子村(ノ)山崎(ヤマザキ)てふ所に寓居(グウキョ)す、然(サル)に奴隷(ヌレイ)神(ノ)井を汚(シ)て人馬共(ニ)即死(ソクシ)せしを見(テ)大(キ)に恐怖(ヲソレ)、始(メ)て神威(シンキノ)厳然(ゲンゼン)として難(カタキ)犯(ヲカシ)㕝を知(レ)り、先(サキ)是(コレヨリ)武芸(ブゲイニ)長(ズ)と云(ヘ)共心(ニ)不(サル)満足(マンゾクセ)㕝あり、依(テ)梅木山不断所(バイボクサンフダンジョ)と云(ヘ)るに移住(ウツリスミ)て、夜(ハ)神庭に出(テ)精誠(マコトノコヽロ)を尽(ツクシ)て祈念(キネン)し、昼(ヒルハ)木刀(ボクタウ)を取て庭前(ノ)梅樹(ウメノキ)に向(ムカヒ)、独(ヒトリ)進退周旋(シンタイシウセン)の術(ジュツ)を習(ナラフ)、如此事(カクスルコト)一千日、丹心誠(タンシンノセイ)祈、神明感応(カンヲウ)し賜ひけむ、終(ツヒニ)兵法の蘊奥(ウンヲウ)を極(キハメ)、英名(エイメイ)を海内(カイダイニ)震(フルヘ)り、今神刀流と称(シャウ)する是也、世(ニ)武器を翫者(モテアソブモノ)彼(レ)に折衷(セッチウ)せずと云(フ)事なし、実(ジツ)に宇寓(ウチウ)の一人其上(カミニ)出者(イヅルモノ)なし、是霊異(レイイ)の神伝(シンデン)、人智(ニンチノ)不(ザル)及(バ)所を得(ウレ)ば也、
死後梅木山(ノ)境内(ケイダイ)に葬(ハフリ)、今(ニ)墓碑(ホヒ)あり、飯篠長威大岳位、長享二年四月十五日とあり、子孫連綿(レンメン)して開祖(カイソノ)業(ギャウヲ)襲(オソ)へり、
 
と述べ、塚原卜伝との関係については「鹿島志に載所難(ノスルトコロガタキ)甘心(カンシン)者(モノ)一二挙(アゲ)て論(アゲツラフ)」の項に
 
御軍祭の条に、神功紀に皇后の御船を冥助なし給ふ諸神の御名を問せ給へる所に、答(テ)曰(ク)、幡萩穂出(ハタスヽキホニイヅル)吾(ハ)也、於(ニ)尾田吾田節之淡郡(ヲタノアタフシノアハノコホリ)所居神(ヲルカミ)之有(アリ)也云々、神名式(ニ)、阿波(ノ)国阿波郡建布都(タケフツノ)神社あり、思ひ合すべし、
重規云(フ)、日本紀通証(ニ)釈(ニ)曰(ク)、神名式(ニ)、阿波(ノ)国阿波郡建布都神社、今案(ニ)据(ヨレバ)下文(ニ)則是稚日女(ワカヒルメノ)尊(ナリ)矣、かゝれば此建布都(ノ)神社は武甕槌神にはあらざるをや、
新当流の条に、塚原卜伝(ツカハラボクデン)と云へるは世に聞(キコ)へたる達人にて名を高幹(タカモト)と云(ヘ)り、[元亀二年三月十一日卒、]千日(ノ)間神宮に参拝(シ)て祈(リ)しに、満参の期(キ)、夢中(ムチウ)に神託(シンタク)を得て伝(ヘ)来れる一太刀の妙理を悟(サト)られたり、又其頃、香取に飯篠長威(イヒザサテウキ)と云(ヘ)るあり、[長享二年四月十五日卒、]香取神宮に祈(リ)、託宣(タクセン)を蒙(カフヽリ)て槍長刀(ヤリナギナタ)の精妙(セイメウ)を悟(サトリ)、長道具(ナカドウグ)に達したり、共に心を合せ互(カタミ)に武名を震(フル)へり、
重規云(フ)、長享二年より元亀二年に至(ル)迄八十四年、共に心を合せ互(カタミ)に武名を震へりとは最(イト)難(シ)意得(コヽロヘ)、若(シ)同時の人たらば、長威没後(ボツゴ)に卜伝(ボクデン)八十四年存命(ゾンメイ)すべけむや、又新当流伝受の書に、天真正飯篠長威・塚原土佐守・同新左衛門・同卜伝と有、是聊(イサヽカ)も違(タガヒ)なき㕝也、然(サレ)ば卜伝が為には長威は四世の師たり、依て互(カタミ)に武名を震(フル)へりと云ヘるは誤(レ)る事を知るべし、千日神宮(ニ)参拝し神託(シンタク)を得しと云(ヘ)るも覚束(オボツカ)なし、既(ニ)云(ヘ)る長威が㕝を、卜伝に誤伝(アヤマリツタヘ)しにはあらじかと思(ヘ)れど、卜伝にも此㕝有(リ)しかしらず、莵にも角にも、卜伝が為に長威は四世の師たる㕝決(ウツナ)し、
追考、北条早雲記(ニ)長威を刀法中古(トウホウチウコ)の開山(カイサン)と称し、武芸小伝にも中興刀槍(チウカウトウサウ)の始祖(シソ)とす、又諸岡一羽(モロヲカイチワ)・塚原卜伝(ツカハラボクデン)も長威より刀術(トウシュツ)を伝へし由(シ)是亦同書に見ゆ、
 
としている。
 さらに、嘉永年間の著作(著者不明、朝野泰平だろうと)『香取大神宮参詣略記』はその一節に「氷室坂(ひむろざか)を下り、右の方一町ばかり谷間(たにあい)に新福寺と云あり。此側(このかたはら)に飯笹長威入道の子孫の家あり(中略)。宮中町を反(かへ)りて雩塚(あまごひつか)の左の方人家の裏に、飯笹長威入道の碑あり。小碑なり」と記している。
 長威斎の墓碑については、清宮秀堅がその著『香取新誌』の中で、
 
梅木山不断所ノ囲ノ土手ノ上ニ古碑アリ、碑面飯篠長威、長享二年四月十五日ト鐫ス、此コト猶武芸小伝、北条五代記等ニ載ス、并セ見ルヘシ、
鹿島須賀村梅林寺ニ、塚原卜伝ガ碑アリ、元亀二年三月十一日卒ト記ス、長威ガ卒、長享二年ヲ去ルコト、八十四年ノ後ナリ、
 
といい、『千葉県誌』に長威斎の墓が飯笹の地福寺境内にある旨の記述があり、事実それらしい板碑型の墓石があるが、刻銘などは判読不能である。
 飯篠氏の系譜は次のようになっている。

 

 最後に『北総詩誌』にある清宮秀堅の詩文を載せて、飯篠氏および飯笹の項を終わりたい。
 
東山茶宴薄軍功。勇退能存国士風。播得天真正伝術。経神余烈仰無窮
飯笹家直、称伊賀、号長威。飯笹人也。以撃剣顕。嘗祈香取神、其技大進。因以神道、名其術。後世称剣技流派者、大抵発源神道流。相伝、長威嘗仕足利義政。未帰隠、長享中卒。墓在香取不断所。[死称卒、五位以上人也。而今拠碑題改。宣斟酌観。]