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村の起こり

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 集落の西側に芝山町との町境ともなっている旧道がある。横芝町から神崎町の利根河畔を結ぶ道路で、山林の背陵部を曲折しているが、六割方は自動車の通ずる程度の道路幅をもっている。
 字永井芝から大字牛尾に向かうと、右側に上総国、左側に下総国が見下され、所々に道しるべや道祖神が残っている。いわゆる下総・上総の国境い道である。
 大字牛尾地先で県道によって遮断されるまでは、横芝町谷台から神崎町の源田河岸まで続いていたというが、現在は、この道を中心として農業灌溉事業としての成田用水の幹線管が埋設され、その上を成田用水第一幹線道路が走り、旧道はまったく面目を一新した。
 また、この道は天慶(九三八~九四六)ごろ、常陸の平将門を討伐のため横芝を出発した平良兼が、軍団を率いて通過した道であるともいわれている。この説の根拠となっている『将門記』の一節には、「自上総国武射郡之少道着於下総国香取郡之神前……」とある。
 この旧街道沿いに、宮様、宮台、金堀などの地名があり、芝山町住母家地先にもこれと対応する字名があるが、その地帯はかつての城砦跡とも思われるところで、古墳群もここに集中している。
 記紀に記されている第十代崇神天皇が四道将軍を派遣して大和朝廷を確立したとき、茨城を築き土賊を滅ぼしたという伝説の地はここであるとする史家もある。
 天慶時代の街道説も右の茨城説も、それが現代とどう結びつくかは疑問であるが、いずれにせよ、古い時代から開発が行われたであろうことは推測に難くない。