現在当集落に寺院はないが、もとあった堂宇の一部が字谷三一八番地の一の石塔場隣接地に残っていて、近年まで集会所として利用され、現在も仏教的な行事の場としては使われている。
この旧寺について明治の『寺院台帳』は、次のように記している。
千葉県管下下総国香取郡多古町間倉字ヤツ
中本寺 蓮福寺末
延命寺
一、本尊 地蔵菩薩
一、由緒 不詳
一、堂宇間数 間口弐間奥行弐間
一、境内坪数 百弐拾六坪 官有地第四種
一、住職 遠藤照宥
一、壇家戸数 五戸 以上
この延命寺は、昭和二十六年に飯笹の地福寺に合併した。
いま残る建物の中に、内陣に似た小さな戸棚があり、そこに三〇センチほどの地蔵菩薩が安置されている。その奥の板木には地蔵尊像が刻まれているが、裏側に次のような墨書が見られる。「下総国香取郡間倉村 自性院内位僧老 」
建物の左手にある木造の小堂は大師堂と呼ばれているが、そこには弘法大師と興教大師の石像が安置されている。四月に行われる十善講大師参りの本尊である。
その大師堂わきにある石塔には「羽黒山秩父坂東 湯殿山百番供養塔 月山 西国 天保六巳(乙)未年(一八三五)仲秋立之 鵜澤太平 冨士山御中渡大願成就 包光行」とあって、台石には、飯笹萩原重郎兵衛、伊藤庄左衛門、大三川元右衛門、飯塚長左衛門、伊藤久左衛門ほか、東佐野・五反田・牛尾・石成・坂志岡の各地にわたる一〇人の名が刻まれている。
次に、「建立十五夜待 天明六丙午(一七八六)二月吉日 善女講中」と刻まれた石塔がある。陰暦八月十五日(芋月見)、九月十三日(栗月見)には、他の地区にもみられるのと同様、団子や秋の草花を供えて観月をする習わしがあり、とくに女児はこの夜、月の光で針孔に糸を通すと裁縫が上達するといわれているが、この石塔はかつての十五夜待ちの女講中によって建てられたものであろう。
左手の石塔場の中に、台石三段の立派な石塔がある。それには「(表)乗蓮院實祠道圓居士」、「(右)文久三年庚(癸)亥(一八六三)秋七月建立」、「(左)辞世『我西へ戻る五月の晴間かな』三世暁湖庵素東」、「(裏)石神井佐左衛門」とあって、台石に「筆子中」、その下段に多数の名前が刻まれているが、現在では判読困難となっている。
かつての師匠のために教え子たちが建てた報恩碑であろうが、詳しいことはわからない。