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村の文書

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 小金牧の鹿狩のこと
 寛政年中に行われた鹿狩の記録によると、その実施地域は広大で、東は銚子、南は大多喜、北は結城(筑波山北西部)、西は江戸川に及んだ。すなわち、下総国全域と上総国南部にかけての範囲である。
 春三月に実施が予定されると、前年の十月からいろいろな通達文によって各村に細かく指示され、これに基づいて当該村では早速その準備にとりかかる。獲物を追い出す勢子(せこ)の人数も割り当てられたが、この勢子たちは、狩りの数日前から昼夜を分かたず晴雨にかかわらず、最終狩猟場所の小金原中野牧(現鎌ケ谷市)まで一斉に追い続けるのである。
 当日は、将軍の前まで追い込まれた動物を武将たちが撃ち獲り、武技を競い力量を披露した。泰平の世における武士たちの晴れの場所であったが、このような華やかな舞台の裏に隠れた農民の苦労は想像以上のものであった。
 小金牧での鹿狩は、寛政七年(一七九五)三月五日と嘉永二年(一八四九)三月十八日に行われているが、町内各集落にはこのことに関係した古文書が幾つか見られる。その中で、東松崎に保存されていた嘉永二年の鹿狩についての文書には、隊の編成や分担の役職名などが記されているが、行動の内容については「寛政度に行ったとおりである」としている。
 次の間倉・平山惣兵衛家所蔵の寛政文書は、一部欠けてはいるが勢子たちの具体的な行動を詳しく記したもので、鹿狩記録としては貴重なものといえよう。あえて注釈を加えず、原文に句読点を付して次に載せる。
 
   寛政六寅(一七九四)十一月七日四ツ時ニ於小金野ニ御鹿狩御回状御通覚
来春於小金野御鹿狩御請人足御用人馬之儀、里数相隔候村方者往通之路用相懸り難儀致候。村々ハ賃銀相納候而勝手ニ相成候哉御糺、別紙安(案)文之通リ半紙竪帳相認、明八ツ時多古我等旅宿江可差出候。尤至極急御用ニ有之候条其旨相心得、無遅滞村役人印形持参可罷出候。
 此廻状刻付を以昼夜為飛、留リ村より可相返候 以上
       十一月七日
                                    内方鉄五郎 手代
                                        藤東三郎
 
      高訳ケ御改之覚
一、惣高百拾九石
  御町奉行小田切土佐守組与力 知行所
 一、高三拾六石六斗壱升四合
        下総国香取郡間倉村
              名主佐左衛門
  石谷大助 知行所
 一、同弐拾七石四斗六升
        同国同郡同村
              名主 源之丞
  山角四郎左右衛門 知行所
 一、同拾八石三斗八合
        同国同郡同村
              名主 惣兵衛
  内藤熊太郎 知行所
 一、同拾八石三斗八合
        同国同郡同村
              名主 伊兵衛
右者私村私領高訳書面之通り相違無御座候。尤私村方ハ御鹿狩御場江里数相隔候而、正人足差出候儀難儀ニ御座候間、賃銀相納候積リ仕度奉存候。且勢子人足之儀ハ正人足ニ而可差出旨被仰渡奉畏候。依而御請印別紙差上申候 以上
     寛政六寅十一月日
  内方鉄五郎手代
       藤東三郎殿
 
   [寬政七乙卯年二月朔日通ル] 御触之写
追而此触書一村限写取、別紙村名迠村役人承知之致印形刻付を以早々順達致シ、留村より丹後守役所可相返候。若落村有之候ハヽ、其隣村より委細ニ可申達候。
 当三月上旬下総国小金野中之牧ニおいて御鹿狩有之候ニ付、下総一国並上総国大多喜辺より追寄候積リ被仰渡候間、一村毎ニ人別惣懸り致、隣村江申合、小金野之方江順能追立可申候。稀成御鹿狩之儀、兼而村々諸作物を荒し難儀及候猪鹿、此時節ならでハたやし可申様無之間、一村限り不残様精出、御狩場之方江追出し可申事。
一、右追方之儀者、たとへ者上村より追出シ候ハヽ上村之人別惣懸り致シ足並ヲ揃ひ、中村迠追出候者中村人別惣懸致シ、上村之人別茂一ツニ加り足並ヲ揃ひ、又下村迠追出候ハヽ下村之人別惣懸ニ致シ、上村中村之人別ニ一ツニ加里足並能揃、其次之村江追出候ハヽ又右之ことく何連村ニ而も同様心得可申候。
 畢竟猪鹿追出シ向之方ニ而声等致物さわがしく候而者、請勢子之同理ニ当リ猪鹿向江走リ不申、折角追出候猪鹿脇江きれ、又者跡江戻洩多相成事。右追出候先々江兼而人足集メ配り置候儀等不相成候ニ付、前文之如く村毎ニ人別加り候様との事ニ候間、右之趣意能々相弁、たとへ者上村よ里中村迠追出候内者、中村ニ而者大勢之人声等不致候様ニ可成丈物静ニいたし置、上村之人別追候ハヽ其時一同ニ声立足揃ひ致し一所追可申候。何ケ村ニ而も右之心得専一事。
 五六ケ村村茂追参候ハヽ遠方之者見斗、少々宛引取らせ可申候。或者勝手を以追参度存候者ハ勝手次第御狩場迠茂追参べく候。若等閑ニ心得早々引取者有之においてハ、後日に相聞候ハヽ可有其咎事。
一、小金野江御成日限相定候者猶又早々可申触候間、凡一日ニ三四里程宛追立候積を以、御成当日より三日前迠ニ、上総国大多喜辺より下総国六方野縁り迠追詰、目印之さいみ立置所ニ而踏留足揃ひ可致居。下総国銚子辺より同国佐倉城下鹿嶋川辺リ迠追詰、目印之さいみ建置候所ニ而結城辺より利根川辺迠追詰、目印之さいみ建置ニ而踏留足揃致し可居候。其節勢子差引之役人夫々差図可致候間可任其意ニ。
 右之心得を以、大多喜辺之村々六方野迠之里数ニ応じ追方日数相考、銚子辺村々ハ佐倉城下迠之里数ニ応じ追方之日数相考置、結城辺之村々利根川迠之里数ニ応じ追方之日数相考置、御成日数定申触候ハヽ、前文之通り御成当日より三日前迠ニ御場所迠追詰候様ニ可致事。
一、追初候得者、前文之通段々村毎ニ人数加り、休なく一旦ニ追不申候而者猪鹿跡戻り候間、凡半日茂追詰可申与見詰候場所ニ、可成丈川ニ而茂沼ニ而茂谷田堀等を前ニあて候様ニ、兼而目印之笹引いたし候様、又者さいみ竹ニ而も建置、其所ニ而一同外江散し不申、昼食致程能々休足致候而又足並能揃江、其日之踏留り迠者休なく追通し可申候。
 右踏留之儀者可成丈前同様川沼谷田等を前ニあて候様、是又兼而目印之笹引致置、其場所至候而夜明候迠所々ニ而火たき折々声を立、人足相互ニ申合一時宛茂代り合眠り可申候。一同ニ眠り候而者折角夫迠追寄候猪鹿悉ク跡へ戻り候間、可成丈者眠り不申様、火を焚き声を立、夜明候ハヽ又右之ごとく昼食之足揃迠者休なく追通し可申候。幾日幾夜追候共右之法ヲ破リ申間敷候事。
一、追候節、銘々手頃之竹壱本竹貝壱ツ宛持、其外鳴物勝手次第持出、藪林之内ニ猪鹿籠可申場所者左之鳴物にて追出し、且猪鹿向い参候ハヽ声を立右竹ニ而追払可申事。
一、御領者御代官私料者地頭より兼而相渡置鉄鉋村毎不残持出シからづゝ放し可申候。尤追初之場所足揃之場処踏留之場所ニ而重迄打はらい可申事
 右之条村役人者勿論小前之者共茂一同ニ隣村江相互ニ時々申合、追方之節のとみニ不及混雑ニ様ニ兼而手配致置、村毎猪鹿不残様ニ追懸し可申候。若等閑之取斗方於有之者可為曲事もの也
 
   寛政七乙卯二月朔日ニ通ル
                                     右村々
                                        名主
                                        年寄
                                        百姓代
       丹後守 印
  追而、此触書別紙村名之上村役人承知印形いたし、刻付を以早々順達致、留り村より丹後役所江可相返候
 
 来ル三月五日下総小金野牧において御鹿狩御成御沙汰ニ付、先達而相触候趣を以、来ル三月二日迠東方佐倉鹿嶋川縁リ迠南之方六方之縁リ迠北之方わ利根川之縁リ迠追詰メ踏留居、役人差図可相待候。
 尤雨天ニ而御成相延候事茂難斗、左様之節者右踏留ノ場進退不相成候間、兼而其段相心得夫食余慶ニ心懸ケ、少く飢渇ニおよび候共一巳の不覚悟より起り候事ニ付不及沙汰ニ、其旨可存もの也。
        二月五日辰下刻ニ通ル
   寛政七年卯正月廿五日
       丹後 印
                                   下総国香取郡
                                         船越村
                                         南玉作村
                                        右村々
                                          名主
                                          組頭
船越村 五反田村 南中村  千田村  東佐野村 一鍬田村 牛尾村 間倉村 前林村 水戸村
伊野村 馬乗里村 石成村  中佐野村 横山村  林村   飯笹村 下田村 嶋村  多古村
福田村 東染井村 井土山村 桜田村  大堀村  北中村  金原村 八辺村 片子村 南玉作村
 
   初御相図  大筒七放
   弐度目同断 大筒弐放
   三度目同断 大筒弐放
   御用済相図 大筒七放
壱ト手立場之内壱番より五拾番杭木有、壱ト手之内ヲ右之順々請持候事
   壱番之杭より十弐番之杭迠壱ト手、郡代方
   十三番之杭より弐拾四番之杭迠壱ト手、御鷹方
   弐十五番之杭より三拾七番之杭迠壱ト手、御鷹見方
   三拾八番之杭より五拾番杭迠壱ト手、小普請出役
五ノ手勢子御前夜立切之場所 牧士
   栗野村字入道院取附より串崎新田肝煎
 
人足壱万千百弐拾九人  関所迠綱差世話人
   御鉄炮五挺 御鉄炮方揃所
           栗野村名主弥右衛門
一、御前日夕七ツ時(午後四時)ヲ限右場所江立切可申候
一、御当日朝六ツ時(午前六時)西ノ方ハ六ノ手追出候随ひ手ヲ合鉄炮打掛ケ惣勢子声ヲ立、串崎新田より中沢村山之内追払、串崎大手通り入道院迠細見印所かきの手ニ踏留
一、初御相図大筒七放承り、入道院の方四ノ手追出可申候ニ隨ひ、惣勢子声ヲ立可申。柳沢溜井より勢子大手通り串崎木戸迠、細見印之所江追寄踏留可申候
 但シ二度目御相図之内者、勢子声ヲ立不申様勢子立切居、猪鹿勢子ニ向候ハヽ其所斗声ヲ立追通可申候
一、三度目御相図大筒弐放承り候者、東之方柳沢溜井立切、四ノ手追方ニ隨ひ、手ヲ合請勢子ニなり声立不申踏留、印之所江繰込立切可申候
 但シ三度目御相図四ノ手追詰之節、中野牧御囲土手続勢子土手迠請勢子之方江猪鹿向候ハヽ、洩不申様ニ声立追返し可申候。尤追払之節者鉄炮掛リ惣勢子声立不申鎮り居、猪鹿勢子之方江向候節斗リ洩不申様ニ其所斗リ声立、御立場之方幾度茂追可申候
        六番
       十六番
 組御鉄炮  廿六番  杭江壱挺宛
       三十番
      三十六番
      四十六番
一、御成前日朝追初メ御相図追方踏留、本文義定書之通りニ而作略有之候事
一、三度目御相図踏留印之壱ト手杭五本有、五之手分壱ト手杭壱本ヲ目当立切り、左右之程見合斗江可申事
庚申塚詰七ノ手組四番
  御役人御鳥見方
             勢子頭
御鷹方[本田善三郎様 広沢覚之助様] [秋山村 三左右衛門殿]
              日暮レ村
御郡代付御普請       八郎右衛門殿
   川嶋安右衛門様    中和倉村
同  安藤忠蔵様      五郎左右衛門殿
牧士 細見源助様      〆人足千百八拾九人
   七番
菅沼藤重郎御代官所  市川新田 繁右衛門
右 同断       舟橋海神村 顔右衛門
新見安右衛門知行所  河原村  太忠大蔵
本田伯耆守領分    道野辺村 五郎左右衛門
同 知行所      中沢村  治郎兵衛
    (一枚欠落)
竹垣三右衛門御代官所  稲趣村 太郎兵衛
同 知行所       秋山村 三右衛門
同 知行所       簡谷村 源六 半平
  〆拾弐人

 

五ノ手堀田相模守領分印旛郡米取村 文右衛門
同 領分       保品村 太郎左右衛門
 
一、御成御当日乙卯三月五日朝五ツ(午前八時)御立場ニ御着被遊候。人足共拙村百石八人之積リを以人数拾人宰領弐人差添、朔日ニ下総国印旛郡保品村迠参着仕、其夜一宿仕、二日朝六ツ(午前六時)ニ出立、谷津村字庚申塚迠詰申候処ニ、舟橋問屋手帳持人足相改候処、拙村人足共並会郷村々舟橋五ケ市詰ニ相成、其日九ツ時分(十二時)着当相済谷津村ニ帰リ重郎兵衛殿と申処ニ宿取置申、右着当之節役人より仰渡シ、明六ツニ右五日市迠相詰候様被仰渡、仍而三日わ未明より仰之通五日市江相詰メ候処ニ、五ツ時分ニ舟橋大神宮社中ニ而人足改メ御座候。拙村ニ者山角四郎左右衛門様より御鉄炮壱挺相渡リ、此持主並ニ宰領ハ村々追而御役人衆中旅宿ニ召出され、仰渡シハ、明四日之夜之九ツ半時より山野追方仰渡シ御座候。
 右仰之通リ左之書付七ノ手ニ一枚相渡候間、舟橋宿所ニ而写取持参仕候。是ハ左之通リ
      人足宰領江申渡覚
 今夜九ツ半より人足繰出シ、舟橋五日市江六ノ手夜番所字すかわら之内海辺通リ、人足壱人立ニ並能順々立切居可申。尤挑灯幟等人足境江右高挑灯之立候処ニ、村宰領壱人宛附出し可申候。但シ御用済迠同断心得可申事。差引方より赤麾あげ候ハヽ人足追出しさせ可申候。白麾上候ハヽ人足踏留リ可申候。
 但シ踏出し候ハヽ踏留リまで竹貝吹其外鳴物無絶間打可申候。但シ踏留リ候ハヽ竹貝ならし物打ふき申間敷候。鉄炮持出候人足者、差引之出役より指図無之候ハヽ一切打申間敷、尤打候様ニ差図いたし候ハヽ、其節から(空)筒ニ候得共空江向打可申事。
一、弁当遣せ候節も、差図之者より申付有之候間、夫迠者我侭ニ弁当遣せ申間敷候。是ハ踏留リ直ニ追出し候儀度々有之候ニ付、持物下江おろし候得者、赤麾上候節出足遅ク相成候ニ付、右之通リ申渡候事。
一、弁当遣せ候節も、銘々手廻し致シ遣イ仕廻候様申渡候事。
一、夜分ニ相成候ハヽ、差図之者より挑灯付候ハヽ、村々人足挑灯高張共ニとぼし可申事。但シ今日才料(宰領)共付木等紵いたし、夜分之用意致シ可置事。
一、御成御当日御用済之節ハ、人足江差引之物より御用済之由申渡、引取候様申付候共騒立不申、物静ニ引取候様兼而申渡シ可置事。
 此外其時々差図いたし候儀者、村才料承之其村限リ人足江申渡シ、大切ニ相守リ候様今日宿々ニ而銘々申渡シ置、心得違有之候ハヽ御用済之上ニ而村役人呼出急度相糺候ニ付、其通才料心得急度可相守候 以上
   寛政七乙卯三月四日八ツ刻ニ舟橋旅宿ニ而御郡代方より右之通仰渡シ御座候。
一、夫より 日夜九ツニ谷村出立ニ而舟橋五日市詰朝六ツより追立(以下欠落)
 
 国境いおよび野地論争のこと
 字榎木戸(えのきど)一二一六ノ二番地から字氏神一〇二五ノ二番地、さらに字永井芝一一九九ノ二番地の付近にかけてを人々は「論所(ろんしょ)」と呼んでいる。かつて国境いの問題について間倉と菱田が、村境いについて間倉と飯笹が争ったとき、それぞれこの場所で論議を闘わせたが、お互いに自説をひるがえさず、容易に結論に達しなかった。結局は現在の境界線で決着したが、それは元禄十五年(一七〇二)のことである。そして役人によって検分され、裁定を受けたのであるが、幅二・五メートルほどの大絵図面の裏に書かれたのが次の裁定書である。

土地出入裁定絵図の裏書

 上総国武射郡菱田村与(と)下総国香取郡間倉村国境並間倉村与同郡飯笹村野論之事。
 菱田村之者申趣、国境之儀間倉村ヨリ新境仕立之土手築候。然ニ掘返シ致新開候故相断候処、三拾間余荒之為境由申掠旨訴之。
 間倉村之者答候者、従先規九十九里之海辺ヨリ小見川海道江通候道限之土手続見通シこい野中菱田村之畑ヲ引通シ野馬除之土手続迄国境相定候。且間倉飯笹両村野境者、下総海辺ヨリ常陸之方江通候大道ニ而、西北之間五辻野馬除之土手両村境ニ而、種入台子持沢弐ケ所従前々致支配来候処、飯笹村之者押込松木伐採候由申之。
 飯笹村之者申候者、元来間倉飯笹両村長井芝大倉台弐ケ所互ニ入会境相極、田畑囲之外者両村山林ニ而上木下草取来候由申之。
 為検使高室平十郎 瀧野十右衛門被差遣之検分之上、菱田間倉両村申立候国境証拠一円無之、隣郷鴨村住母家村之者、九拾九里従浜辺小見川海道江通候往還之道筋境用来上者、弥有来道筋ニ隨西方横土手ヲ見通境相極畢。
 右弐ケ所之野飯笹村之者地内之由申ニ付、是又遂検分処、間倉村地続ニ而、古畑相続有之上者間倉村為地内段無紛相見間、弐ケ所之野間倉村地元ニ相定、秣者入会ニ可刈取之。但シ上木者今度近郷御代官江申付伐採せ、種入台ニ開置候畑者荒之、向後新開立出シ一切不可致之。従菩提塚北方ニ有之内野者飯笹村地内分明候条、可為飯笹村地元。
 為後鑑絵図之面所々引墨筋、各加印判三方江下与之間永可相守此旨者也
    元禄十五年十一月十二日
            戸備前 印 (戸川備前守 勘定奉行)
            久因幡 印 (久貝因幡守 勘定奉行)
            萩近江 印 (萩原近江守 勘定奉行)
            井対馬 印 (井戸対馬守 勘定奉行)
            丹遠江 印 (丹羽遠江守 江戸町奉行)
            保越前 印 (保田越前守 江戸町奉行)
            松伊豆 印 (松前伊豆守 大目付)
            本弾正 印 (本多弾正 寺社奉行)
            阿飛弾 印 (阿部飛弾守 寺社奉行)
            永伊賀 印 (永井伊賀守 寺社奉行)
             丹後 印 (稲葉正往 老中)
             但馬 印 (秋元喬知 老中)
             佐渡 印 (小笠原長重 老中)
             相模 印 (土屋政直 老中)
             豊後 印 (阿部正武 老中)
 
 このように記され、今までの道筋に従い、西方の横土手を見通して国境いとし、種入台、子持沢の二カ所は間倉の地続きで、その村域であることに紛れなく、菩提塚北方の場所は飯笹に属するものであることとされた。