多古町の西北端に鶴の頭のような形に位置し、大栄町・成田市・芝山町の三市町域にそれぞれ接しながら円形に湾入している。集落の西北部には、香取・印旛・山武三郡の境界を示す築堤が三差している地点があり、三郡をひとまたぎにできる場所といわれていた(現在は新東京国際空港の用地内に入り、三差した築堤はない)。集落の周囲はすべて旧佐倉馬牧であり、馬牧の中に浮かぶ古村といえる。
現在、丹波山地先にある空港敷地内で埋蔵文化財の発掘調査が進められ、出土品の中には縄文期の土器も検出されている。この遺跡や出土品が現代の集落とどうつながるかは今後の研究にまたねばならないが、隣接する土地に縄文期の遺跡があるのであれば、一鍬田周辺の水田が拓かれた時代を弥生時代としても大きな誤りとはいえまい。
千数百年前、あるいはもっと以前にこの地に生活の場を求めた先人が、現在の次のようなすがたをわれわれに残してくれた。
宅地 五町八反五畝七歩
田 一七町三反六畝一六歩
畑 五〇町六畝三歩
山林 四〇町七反八畝二六歩
原野 二町九反六畝八歩
池沼 一畝二九歩
その他 三一町四反八畝五歩
計 一四八町五反三畝四歩
世帯数 四八戸
人口 二一一人 男一〇九人 女一〇二人
この面積は昭和五十九年十一月現在、人口は同年十月現在のものである。
今から二七四年前の正徳元年(一七一一)に書かれた『一鍬田村田畑高訳名寄帳』には、
上田 壱町六畝七歩
中田 壱町五反八畝五歩
下田 六町弐畝拾九歩
中畑 七反弐畝拾六歩
下畑 壱町三反壱畝廿六歩
屋鋪 六反三畝廿三歩
このように記されていて、これを単純に比較したとき、その面積は実に現在の一三分の一にしかすぎなかったわけである。そしてこの資料でみるように、正徳時代には水田面積の多い米作り中心のところであったが、現在の畑地をみると、二五倍にも及ぶほどその面積が増え、一大畑作地帯へと変貌していることがわかる。
この過程を、現存する資料から見てみると、転換の時期は、二度ほどあったようである。最初は享保時代、次は明治初期である。次にその推移を振りかえってみよう。