当集落は先述のように、佐倉牧の真中に形成されていることをみてもわかるとおり、牧と切り離して一鍬田を述べることはできない。ここでまず牧の成立を概観してみる。
牧の起源は神代の時代、常陸国鹿島神宮の祭神武甕槌命が東国を平定して軍馬を野に放たれたことに始まるといわれ、一方『延喜式』によると、兵部省の所管する牧は駿河・相模・上総・下総その他一七カ国にあって、下総国では、高津馬牧・本島馬牧・大結馬牧・長州馬牧・浮島牛牧があり、馬は五~六歳、牛は四~五歳で朝廷に貢納されたと記されている。
これらの遺跡の一つが、字馬場山一五四番地の一の山林から字西之内一帯に約一キロにわたって続く野馬除けの築堤(土手)である。
普通は牧の内側に大きな濠を掘り、その土を盛り上げて築いているが、ここのものは、直径約三・六メートル、深さ約三メートルの円形の穴がおよそ一〇メートル間隔に掘られ、同じ幅の築堤によって、その穴を連結する工法がとられている。
やがて官営牧は武家層の専有するところとなり、関東騎馬軍団の飼育基地として地方豪族によって管理された。その後小田原の北条氏康が天正十一年(一五八三)に千葉邦胤に命じて管理させ、さらにこれを引き継いだのが徳川幕府である。とくに八代将軍吉宗は積極的な経営を行い、享保四年(一七一九)奥州白河から牝馬二〇頭を移して改良を図ったという。
地域区分の改革を行ったのもこの時代で、現在の東葛飾郡一帯を五つに区分して小金五牧と名付け、佐倉周辺を七つに区分して佐倉七牧と称した。七牧のうち内野(富里町七栄、新木戸付近)、高野(こうや)(富里町高野、新井田新田付近)、柳沢(八街町大関付近)の三牧は佐倉藩に管理させ、他の取香(とっこう)(成田市取香、三里塚、芝山町岩山付近)、矢作(やはぎ)(多古町十余三、一鍬田、飯笹付近)、油田(あぶらだ)(栗源町岩部、上の台付近)、小間子(おまご)(八街町四木付近)の四牧は幕府直轄地として、代官や牧士を置いて管理させた。一鍬田の周囲を取り巻いていた矢作牧は、縦七〇町(約七・六キロ)、横三五町(約三・八キロ)余で、広さは七七八町歩(約七七〇ヘクタール)といわれていた。
牧と境いを接する村を野付(のづけ)村、野付村の外縁にある村を霞(かすみ)村と呼んだが、矢作牧の野付村は次の各村である。
矢作牧村々高
一、高弐百石 取香村
一、高百壱石四斗八升九合 一鍬田村
一、高三百五拾石弐斗壱升 駒井野村
一、高四百石 一坪田村
一、高四百六拾九石七斗二升三合七勺 吉岡村
一、高四百五拾石 飯笹村
一、高百九拾石七斗 出沼村
一、高七百五拾九石五斗四升六合 澤村
一、高三百拾壱石五升六合 観音村
一、高九百四拾弐石八斗弐升五合 大崎村
一、高百三拾四石八斗七升弐合 馬乗里村
一、高三百六拾弐石五斗 桜田村
一、高弐百六拾石五升三合 横山村
一、高三百五拾五石八斗六升三合 南敷村
一、高百弐拾六石壱斗六升 鳥羽村
一、高三百拾壱石五升六合 所村
一、高六百六拾四石九升 南羽鳥村
一、高七百七石四斗七升 北羽鳥村
一、高百六拾参石四斗四升四合 久米村
一、高百拾八石 堀之内村
一、高五百拾五石三斗八升 大室村
一、高三百三拾七石八斗四升 小泉村
一、高三百弐拾弐石弐斗五升九合 成毛村
一、高六百六拾石四斗九升 芦田村
一、高百拾九石四斗七升 関戸村
一、高弐百四拾弐石六斗八升九合 山之作村
一、高百四拾七石弐斗八升 和田村
一、高弐百四拾七石五斗四升 西泉村
一、高弐百七拾弐石 長田村
一、高三百九拾四石八斗七升九合七勺 小菅村
一、高八拾八石四斗壱合 馬場村
一、高百九拾五石四斗七升六合 大山村
一、高弐百八拾三石九斗九升 野毛平村
一、高弐百五拾三石五 東金山村
一、高百七拾壱石九斗 升三合 西吉倉村
一、高弐百四拾五石五升 東泉村
(『御野馬御用ニ付佐倉七牧村々高改帳』より)
一鍬田もここに記されたように野付村であり、野馬捕獲のときや築堤の補強にあたっては年にいく度か夫役が課せられたが、この馬牧との結び付きがやがて耕地を拡張する上できわめて有利な要因となった。
人口の増加にともない、食糧獲得のためにより広い耕地を求めようとするのは自然の理である。そこで農民たちは、未開牧地のうちの未使用の場所を、役人の目に触れない範囲で少しずつ拓いていった。これがいつか慣例となり、ついには既得権として幕府も認めざるを得なくなって、一部分については正式に開拓を許すことになったのである。
そして、新しく拓かれた土地について年貢を賦課するための検地が、享保十六年(一七三一)五月に行われた。そのときの検地帳には、次のような内容が記されている(一部抜萃)。
下総国香取郡一鍬田村新田検地帳
(向台、甚兵衛山地域)
下々田壱反拾弐歩 三斗代
高三斗壱升弐合
林畑 拾七町六反九畝廿四歩 弐斗代
高三拾五石三斗九升六合
高合三拾五石七斗八合
此反別拾七町八反六歩
外
[大よ路台 かぢ山] 両所
一、悪地芝間 六町七畝歩
菱田村本田縁通
一、同弐反五畝廿四歩 村中持
草銭場
一鍬田村本田縁通
一、同 三町四反六畝廿壱歩
右之外見捨
[長拾五間 横拾四間] 大日塚鋪地
[長拾四間 横拾弐間] 念仏塚鋪地
[長八百間 横弐間] 新田囲土手堤切場
[長弐拾六間 横七間] 前々斃馬捨場
右者下総国香取郡佐倉野方之内一鍬田新田検地依被仰付、六尺壱分間竿を以、壱反三百歩之積相極者也
享保十六年亥五月(一七三一)
御代官
小宮山 杢進 印
御勘定
菅沼 久次郎 印
小宮山杢進手代
成田弁右衛門 印
同 板野 金蔵 印
同 秋山仁平次 印
帳付高田市之丞 印
案内
久兵衛 印
右之通検地相極者也 三郎左衛門 印
惣兵衛 印
筧 播磨守 印 勘之丞 印
重郎兵衛 印
源兵衛 印
こうして一鍬田は、野付村であったがために、農耕地および飼・肥料の採取地である草刈場を確保することができ、大きく進展する第一歩を踏み出した。
次の転換の時期は明治時代初期である。
徳川幕府の崩壊によって無職無収入の人々が東京に溢れ、新政府はこれらの人たちを救済する一つの手段として、下総一帯の旧牧地を開墾して自営農民として定着させることを目論み、明治二年に政府資金によって民間人の手で開墾会社が作られた。しかし、この計画は失敗に終わり、同五年に会社は解散した。なかに一部定着した人もあったが、多くは土地を手放して離村した。
このとき売られた土地が次に近郷地主の所有地となり、新しい所有者によって第二次開拓募集が行われた。今度は農業の経験者が多く応募して、遠くは埼玉県をはじめ、九十九里沿岸地域や近村農家の二、三男が入植し、定着をみた。
この成功に刺激されて開拓の波は牧周辺の村々に及び、古くからの人たちも自墾して同三十八年には丹波山、山下向あたりが拓かれた。これ以後いっそう畑地は大きく拡げられ、それから七十年余を経た今日では、丹波山一一戸、山下向五戸を数えるまでになった。しかし、この人たちにも再び新しい時代の流れが押し寄せ、昭和四十一年から新東京国際空港の建設が隣接の成田市に計画され、同五十三年五月には開港となった。いま丹波山地区は騒音地域の指定を受けて、住民は住居移転の決断に迫られている。
ここで話は再び明治初期にもどるが、開拓の余波は旧御料牧場内にも及んだ。これは第一次第二次の開拓とは多少その内容を異にするもので、明治維新以後、毛織物の需要が増えたため、それまで輸入に頼っていたものを国内で自給することとし、同八年に羊牧場を設置することになって、開墾会社所有地内の未墾地が買上げられた。そして牛馬の品種改良事業も同時に計画されたため、取香牧内に洋種牛馬の種畜場が造られ、これが後の御料牧場となったのである。
この経営にあたっては、牧場内の一部の土地を民間に貸与する方法がとられた。この借受人は一定の条件を備えた者でなければならず、借地料の支払いが保障できるだけの資産を所有する人たちに限られていたようである。そしてこの人たちは土地を借り受け、さらにこれを細分して再び他へ貸付ける方法をとった。
次に載せる文書がそれらの事情を説明している。
土地貸下願
下総御料牧場内
駒ノ頭区夜番厩前十五町六段壱畝六歩内一号
一、畑拾町歩
借地料金参百円 但一段歩ニ付金参円
借地年限自大正二年十一月一日
至同三年十月三十一日
右ハ御料牧場土地家屋貸下規程ヲ遵守シ、畑地トシテ借用仕度候間御貸下相成度、図面及戸籍謄本相添此段奉願候也
千葉県香取郡多古町一鍬田寄留
大竹 久兵衛 印
大正二年十月一日
下総御料牧場長新山荘輔殿
願之趣聞届候条借用証差出ス可シ
大正二年十月三十一日
下総御料牧場長新山荘輔(公印)
(添付書類省略)
これは、大竹久兵衛が御料牧場長に宛てた畑十町歩の借用願である。そして、
土地借用証
下総御料牧場内駒之頭区字筋谷内
一、畑 参町歩
借地料壱ケ年金七拾五円也
但シ壱反歩ニ付金弐円五拾銭
借地料納期壱ケ年弐期トシテ
第壱期六月弐拾日
第弐期拾壱月弐拾日
借地年限大正四年壱月一日ヨリ
大正六年拾弐月丗日参ケ年間
右土地耕作地トシテ借用候処相違無之候。就テハ御料牧場土地家屋貸下規定及随時御通達相成候事項ハ堅ク相守リ可申。勿論法令等ノ結果ニヨリ公課ヲ負担セラルル事アルトキハ借地人ニテ負担可仕候。尚借地期限中前記各項ヲ怠リ、其他牧場ニ対シ不都合ノ所為有之候節ハ該土地速ニ返納仕リ、貴殿ニ対シ毫モ御迷惑相掛ケ申間敷候。依テ証人之連署ヲ以テ入置申一札如件
香取郡古城村鏑木区第百八拾六番地
土地借受人 平野新三郎 印
大正四年壱月壱日 同郡同村同区第四拾九番地
引受証人 斉藤直太郎 印
同郡多古町飯笹区
引受証人 菅澤庫蔵 印
香取郡多古町一鍬田区
大竹久兵衛殿
さきに大竹久兵衛が借りた一〇町歩のうち三町歩の畑が、このようにして平野新三郎へ再貸付けされたわけである。
この借地料をみると、大竹は一段(反)について三円を御料牧場に支払いながら、平野に対しては二円五〇銭で貸していることがわかる。