星華学院 字浅間台にある法務省の施設で、育った環境や性格的な要因からか、社会に適応する能力に劣る十四歳から十八歳の少年たちを、二年以上の長期にわたって収容し、教育するところである。
その規模は、総面積七万二千平方メートル、建物棟数四六棟、建物面積三千八〇〇平方メートル、収容少年の最多時は一五七名に達し、職員世帯数も二六世帯あり、俗に星華村と呼ばれるほどの密集地域でもあったが、収容少年の数が激減したこともあって、昭和五十一年からはその業務を中止し、建物の大半は取り壊された。
一鍬田周辺は、今でこそ新東京国際空港の隣接地として大きな将来を期待されているが、それまでは陸の孤島とか、多古町の北海道とかいわれていたこの地にこのような施設が設けられたのは、少年法の趣旨を深く理解し、彼らの更生事業にその生涯を捧げた竹内道拙師の尽力によるものである。
竹内師については福泉寺過去帳に左のように記されている。
二十五世大宇道拙大正九年六月十四日入寺、東京浅草万隆寺来馬琢道徒也、大正十一年四月千葉監獄教誨師拝命中少年司法保護事業ニ従事ス可キ命ヲ受ケ、同年十一月三日財団法人星華学校ヲ創立シ、寺有土地ヲ開放シ全国各宗ニ先シ之が経営ニ努力セリ。
大正十四年字浅間台上ニ専用校舎ヲ建設シ、設備大イニ整ヒ事業ノ成績頗ル顕著ナルヲ以ッテ屢々皇室ノ恩賛ヲ蒙ル。司法大臣小原直、検事長塩野季彦氏ハ共ニ本校ノ理事トシテ終始一貫外護ノ本分ヲ尽サレタリ。
右のように、福泉寺二十五世であった竹内道拙師は、住職としてのかたわら教誨師として司法関係の職にあって人生に迷う多くの少年たちに接した経験から、ついには、曹洞宗の理念であるところの体験によって自ら目ざめることが更生への最良の道であるという信念に基づいてこの施設を開いた。
後援者はあったものの、檀家を説得して寺院を教室に充て、院長自ら原野の開拓に従った。日々の労働を少年たちとともに行うことによって勤労の尊さを悟らせ、夕べには職員の家族とともに家庭生活の和やかさに触れさせ、あるべき人生の歩み方を体験させた。
この方法はゆがんだ少年たちの心に大きな感動を与え、大勢の更生者を育てたばかりでなく、社会に広く認められて幾度か褒賞を授与された。一方、その感化をわが子のために求めようと、自ら依頼に訪れる親達さえあったという。
院名も、釈迦が明星の輝きから悟りを開いた故事と、泥中にありながら泥にまみれることのない清浄無垢な蓮華の花からとって、星華学院と名づけたという。
大正十一年十一月十三日法人設立登記を行い、翌十二年二月二十三日から福泉寺を仮校舎として事業を開始、同十四年十一月一日に現在地に移った。その後年々施設の拡充を図り、昭和二十三年少年法の改正に伴って私立から法務省管轄となったが、形の上では別としても実質的な変化はなく過ぎた。
昭和二十九年四月十九日、多くの功績を残して道拙師は入寂した。