新兵衛まつり
むかしから一鍬田と取香(旧遠山村、現成田市)は秣場が地続きで境界が明確でなかったため、そのことをめぐっての争いが絶えなかった。
慶長八年(一六〇三)三月二十一日にも、草刈りに出た双方の村人たちの言い争いから、あわや流血の事態も起こりかねない有様となった。急の知らせを受けた一鍬田村の名主新兵衛は現場に駆けつけ、あとは両村の名主同士の話し合いによって解決するからとして、双方をなだめ、その場から双方の村人たちを引揚げさせた。
そして新兵衛はただちに単身取香村の名主を訪れ、ついには永い間の懸案を解決した。
取香村名主の家を出た新兵衛が秣場を横切って一鍬田道にさしかかるころは、すでに陽も落ちて、広い野中の一本道をゆく新兵衛の提灯一つが闇の中に揺れ動くだけであった。秣場のなかば過ぎに差しかかった新兵衛の前に、突然草陰から飛び出た三人の人影が立ちはだかり、手にした草刈鎌で切りつけてきた。不意をつかれ、しかも素手の新兵衛は防ぐすべもなく、首を切り落とされてしまった。
落とされた首は憤怒の形相すさまじく、暗い夜空を遠く取香まで飛び、鎮守の御神木の枝に噛み付いたままになったという。一方、首のない遺骸は、新兵衛の身を案ずる村人たちによって翌朝早く発見された。
このことがあってから、取香の村人が一鍬田の卵塔場の坂を通る時、必ず馬から降りて新兵衛の墓に向かって一礼しなければ、必ず坂の途中で馬から振り落された。
新兵衛の墓
また、取香では毎年のように疫病が流行り、大勢の死人が出た上、相次いで火災の発生があった。そこで不安におののきながら種々の加持祈禱を試みたところ、御神木の枝に嚙みついた新兵衛の首を密かに埋め隠している祟りであることがわかった。以来、毎年の盆と祭りに新兵衛の供養をねんごろにするようになったことはいうまでもないが、それからは村を荒れ狂った疫病も災禍も嘘のように鎮まったという。
また、一鍬田と取香の村人が婚姻を結ぶと、その結婚にはいつも不運がつきものになっているともいわれ、このことは今もって伝えられている。
この新兵衛祭りについての伝説は、一鍬田をよく知る古老の話である。