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多古町の誕生

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 幕末時代
 慶応三年十月十四日将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上すると、朝廷では十一月に大小名を京都へ召集するが、多古藩主松平勝行は辞退して召集に応ぜず、大勢を静観し、翌明治元年三月に入って、ようやく参内した。
 同四月から府藩県三治制となり、旗本知行地、幕府直轄地については府または県が所管し、大名領はそのまま藩主による支配が続けられることとなって、多古・南中・井野・南借当・南並木・中村新田の六カ村は多古藩松平氏の支配に属した。
 松平氏は、同時に、飛地である福島県内の石川郡仲・曲木・上吉・下吉・蒜生・楢葉郡小久・夕筋・上浅見川・上塙・前原・井出・上郡山の十三カ村も併せてその所管とし、また、多古近隣三十八カ村の治安維持のために探索方巡羅隊を編成した。藩主松平勝行が旧姓に復して、久松と名乗るのもこの年である。
 七月に旗本知行地・幕府直轄地の管轄者として、久留米藩士柴山文平(典)が上総安房監察兼県知事に任命されたが、まだ県名は決まらなかった。十月に、多古藩主久松勝行は病気のため東京勤番ができず、帰藩療養を許されている。
 宮谷県時代
 同二年二月九日に大網町字宮谷の本国寺を県庁舎として、宮谷県がおかれ、安房上総常陸の国の全域と、下総国の内の香取・海上・匝瑳三郡内の旗本知行地と幕府直轄地をその県域とした。そして旧幕時代の村役人であった名主組頭百姓代を庄屋什長伍長に改め、「防捍頭取」と称する役も設けたが、これは多古村外四九カ村組合村を範囲として、県からの通達を受け、組合村々へ趣旨徹底を図る役で、初代を牛尾村の勝又茂右衛門が勤めた。
 一方多古藩は六月二十五日版籍を奉還して、藩主久松勝行は藩知事となったが、すでに領主としての土地人民への支配権はなく、朝廷より命ぜられた地方官であり、もとの大名とはまったく異質のものであった。
 同三年一月に宮谷県は津宮(佐原市)に支庁を設けて、香取・海上・匝瑳と鹿島・河内・信太(茨城県)の六郡をその管轄とし、初代支庁長に新庄菅兵衛が任命された。同年三月にはこの支庁を香西村(佐原市)新福寺に移し、支庁長は鹿児島菊治に替った。また九月からは、一般人民にも姓を名乗ることが許された年でもある。
 多古県時代
 明治四年七月十四日には、京都へ各藩知事が召集されて廃藩置県の詔勅が下され、多古藩は多古県となった。知事は東京常住を命ぜられ、一般武士は、士族の称号と禄という年金を受けて士分を離れることになり、多古県でもこの頃七十人程の家臣が村に土着したという。また、この年五月から通貨の大改制が行われて、両朱分文は廃止され、十進法の円銭厘となっている。
 新治県時代
 新しい県は房総に二六県設けられたが、同四年十一月には、早くもその姿を消した。多古県も五カ月間設置されただけで、房総は印旛・木更津の二県に分けられ、下総の内香取・海上・匝瑳の三郡は新治県へ分属し、当然多古県も新治県へ合併された。
 同五年十月からは大区小区制が実施となり、県内を五大区五十一小区に分けて大区には区長、小区には副区長一名を置き、各村に戸長副戸長の各一名を置くこととなる。当然ながら、従前の庄屋・名主などの制度は廃されて、県からの通達はまず官員である大区長に渡り、人民から選ばれた小区の副区長へ達せられ、さらに村々の戸長へ、戸長から一般へ伝達する仕組みである。
 香取郡東部と海上・匝瑳の郡内が第四大区、香取郡西部は第五大区となり、第五大区は十一小区に分れ、多古町域の大部分は第五大区第七小区となった。第七小区内の村々は多古・島・林・石成・水戸・千田・五反田・東台・井野・大原・東佐野・中佐野・染井・飯笹・間倉・一鍬田・船越・牛尾・南中・北中・南借当・南和田・南並木・次浦・西古内・御所台・寺作・井戸山・大門・高津原・出沼・桧木・谷三倉・本三倉・南玉造・片子・大堀の村々で、他は第五小区に属し、香取・海上・匝瑳・鹿島の四郡は、この年の八月に設けられた小見川支庁の管内に入った。
 現在の多古町全域が新治県に編入されて一年程過ぎた同六年六月十五日に、印旛県と木更津県が合併して、千葉県となり、初代県令柴原和は、県庁舎を千葉神社神官千葉良胤の宅に定めた。
 そして新治県管下であった多古村に、現在の第一小学校の前身である学校が設けられたのが、同八年三月十四日で、行政区画とは別に定められた第一大学区三十三番中学区十一番小学区内学校として、「公立多古学校」が多古県庁舎であった久松陣屋跡の現在地に開校した。
 千葉県時代
 学校が開校して二カ月後の同八年五月、新治県が廃止されると、香取・海上・匝瑳の三郡は千葉県に編入されて、およそ現在の県の区域となり、現多古町全域が千葉県域に入った。
 同八年十二月に、下総国内の行政区画の変更が公布され(同九年一月一日から施行)、香取郡内は西部が第十四大区となり、大区内に十一の小区が作られた。多古町域を含む東部は、第十五大区となって、大区内は、十二の小区に分けられ、新治県時代の村役はすべて改められた。
 大区に区長一名副区長二名、小区に戸長一名副戸長若干名、各村には用掛一名を置くこととなり、旧来の各村の戸長副戸長の役は廃止された。大区の区長副区長は官選であるが、小区の戸長副戸長は、区民の推薦によって任命された。そして現多古町区域内は次の小区に編制されたのである。
 
  第十五大区一小区
一鍬田・間倉・飯笹・井野・大原・染井・東台・中佐野・東佐野・五反田・林・千田・水戸・石成・島・多古・井戸山・寺作・御所台・高津原の二十カ村で小区取扱所は後記のとおり。
  第十五大区二小区
牛尾・船越・新井・宝米・市野原・二又・篠本・吉田・南神崎・八辺の十カ村で、小区取扱所は篠本におかれた。
  第十五大区三小区
入山崎・南山崎・中村新田・南並木・南中・南借当・北中・南和田・南玉造・安久山・片子・金原・大堀の十三カ村で、南中に小区取扱所がおかれた。
  第十五大区四小区
大門・西古内・次浦・桧木・出沼・谷三倉・本三倉・苅毛・西田部・岩部・高萩・助沢・沢・荒北の十四カ村で、小区取扱所は本三倉にあった。
  第十五大区五小区
川島・東松崎・山倉・鳩山・桐谷・新里・小川・小高・内山・飯高・方田・坂・大角の十一カ村で、東松崎に小区取扱所がおかれた。
 
 第一小区取扱所は、大原内の法福寺に設けられて、戸長に五十嵐佐五郎・副戸長に池田泰重郎が任命され、大区取扱所は、第十四・十五大区の合併取扱所として佐原村に置かれた。同九年三月からは現在の佐原警察署多古幹部派出所の前身である「第十五大区第一屯所」が併設された。
 同十年四月に、村の運営費の節減を図った一小区内の東佐野・中佐野・東台・大原・井野の五カ村の合併が許可されて「喜多村」となり、同十一年五月には、第十四・十五大区区長に牛尾村の勝又茂右衛門が任命されたが、同年十月に「郡区町村編制法」が施行となって大区小区は解消された。
 このとき、一カ村が独立して役場を置くことは殆んどなく、数カ村が連合して戸長役場を設け、戸長の自宅を役場として執務に当たった。そして次の四連合村となって頭記の集落に戸長役場がおかれた。
 
 飯笹・一鍬田・間倉の三カ村連合村
 喜多・林・五反田の三カ村連合村
 多古・染井の二カ村連合村
 島・水戸・石成・千田の四カ村連合村
 
 この連合戸長役場時代の同十二年十一月に水戸村・石成村が合併して一村となり、同十四年十二月八日島小学校の開校、同十八年七月一日喜多小学校創立などがあった。
 同二十二年四月一日から「市制町村制」が施行となって、行政制度に大改革が行われた。従前の経費節減を目的としたものとは異なり、自然集落を全国的に再編成して、地方自治体を組織するというものである。
 飯笹村外二連合村・喜多村外二連合村・島村外一連合村・多古村外二連合村の四連合村(十一カ村)が合併して「多古村」となり、初代村長には旧藩主の久松勝慈が就任した。
 一方、多古村外一カ村戸長役場は登記事務所を兼ねていたが、同二十一年十一月に大原内の法福寺を借りて八日市場治安裁判所多古出張所が開設されるに伴い、同二十年二月から川島村におかれていた事務所とともにこれに併合された。これが現在の千葉地方法務局多古出張所の前身である。
 同二十四年六月二十九日町制を施行して多古町と改称し、同三十年には多古銀行の創立があり、旧多古藩陣屋跡の大字多古二五四〇番地に役場庁舎の落成を見たのは同三十二年四月であった。
 同四十年六月三日、県立多古高等学校の前身である「町立多古農学校(乙種農学校)」が、高野前(通称木戸谷)の妙薬寺を仮校舎として開校した。その後、同四十四年十月八日には、成田と多古を結ぶ県営軽便鉄道の開通祝賀式が行われるなど、画期的事業が進められ、さらに大正・昭和と時代は移り、昭和二十六年四月一日に東條村が合併し、続いて同二十九年三月三十一日、多古町・久賀村・常磐村・中村が合併して現在の多古町に至っている。