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村のすがた

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 多古町の南端部である。北部から突出した台地が多古橋川と高谷川の間を南に伸びて、その先端が栗山川に近いところで南北に分かれる。その北側の部分が船越である。
 現在(昭和五十九年十一月現在)の集落の規模は次のようになっている。
 
  宅地  一二町九反三畝七歩
  田   一二八町七反一四歩
  畑   三四町四反七畝一九歩
  山林  二七町三反七畝二四歩
  原野  七反一畝二六歩
  池沼  一反九畝五歩
  その他 二町一反三畝一九歩
   計  二〇六町五反三畝二四歩
  世帯数 一七七戸
  人口  七九九人 男三七九人 女四二〇人
                        (世帯数・人口は昭和五十九年十月現在)
 
 かつては、字亥ノ森あたりの丘と字堂島の通称「丸山」と呼ばれている丘は同じ高さでつながっていたが、元禄時代(一六八八~一七〇三)に、そのうちの大立寺から東側の部分を崩し、その土でかつての低湿地帯を埋立てて島から牛尾に至る一大水田地帯を造成したといわれている。
 このとき旧城跡である丸山部分が残され、また、姿の良いことで知られた「船越の松」は、集落の目印としてはるかに遠望されたというが、昭和初期に用材とするため伐採された。幸島家屋敷内に残る切株だけが往時をしのばせている。

船越の松の古株

 屋敷の周辺に土壁となっているところも、風除けを目的として残された丘陵の一部であるという。
 古い時代の土地の状況についてみるとき、それに関しての古文書などの史料が見当たらず、他地区から提供された両総内における多古藩領の耕地を調べた文書によると、寛文十二年(一六七二)の船越での多古藩松平氏領は次のようになっている。
 
   田   八拾八町五反四畝廿弐歩
   畑   拾九町四反四畝拾五歩
   屋敷  壱町四反七畝廿弐歩
 
 この外に分家松平氏の知行地があるが、右に見られるような面積を記した文書はなく、弘化二年(一八四五)関東取締役の調査では
 
  船越村
  松平相模守領分 (多古藩)
   高八四九石三斗八升七合 家数百壱軒
  松平熊三郎(勝久)知行 (多古藩分家)
   高八八石六斗壱升三合  家数拾壱軒
 
と、その石高をもって表示されている。
 その後多古藩(本家)松平氏が国替えとなってからは、その領地は旗本知行地に編入されて小笠原・松浦両氏による相給となるが、そのときの石高について記した『旧高旧領取調帳』を見ると、
 
  小笠原鎚太郎   五一三石九斗三升八合三勺五才
  松浦亥三郎    三三九石六斗九升五合六勺五才
  松平斧七郎(勝光) 八八石六斗一升三合
 
 このように載せられていて、時代は明治へと移っていく。