集落内に多い寺田・佐瀬氏などを姓とする家々の言い伝えによると、その祖先は隣村の千田から字粟田へ移り住んだということで、この伝承は隣接する芝山町境の鈴木家にもある。また、千田も台地から現在の水田地域周辺に移住したといわれているが、水田が開発されるに伴って、耕作上の利便から、千田台地に住んだ人たちが、現在の千田・船越・芝山町境へと移住したであろうことは、十分にうなずけることである。
字谷の水田地域の奥は千田に接していて、台地上の字屋倉・仮屋あたりの畑地には土器片が無数に出土し、先住民の住居跡であったことをうかがわせている。
寺田家の伝承に、天文十七年(一五四八)ごろの人寺田右京之亮は、坂田(横芝町)の城主井田因幡守に仕えたが、後に千田村に住み帰農して字粟田に移住したといい、鎗・くつわなどを今に伝えている。
天文十七年は戦国時代であり、室町幕府十二代足利義晴のときで、『横芝町史』によれば、井田氏が千葉介勝胤の臣下に入ってから一五年ほど後である。なお同町史は、船越・牛尾一帯は、戦国時代末期には、上総大台城(芝山町)の井田氏の所領であったらしいことを載せている。
坂田城は天正十八年(一五九〇)北条氏滅亡とともに開城となるので、寺田家の帰農移住はこの後のことと考えられる。
佐瀬家も古くは千田に住み、のち粟田に移住したと伝えられ、旧住家にあった棟札に「大工椎名七兵衛 木挽佐瀬文三 大立寺九世日幽」「佐瀬甚左衛門に授く 延享五年(一七四八)」の文字が見られたという。この年は七月に改元されて寛延元年となるが、徳川九代将軍家重のころで田沼意次の全盛の時代である。
椎名家墓地内に塚があり、椎名安芸守の墓といわれている。この椎名安芸守は、栗山川対岸の、古くは南條庄内虫生(むしょう)村(現・光町)と称したところにある「鬼来迎」(国の重要無形民俗文化財に指定)で有名な広済(西)寺の創立者としてその名が見られる。同寺に伝わる縁起には次のように記されている。
下総国匝瑳郡虫生村鬼面畧縁起
抑当所辻堂ニ鬼来迎出現並ニ慈士山広西寺伽藍等 其後鬼面天降リ賜亦々飛去給
濫觴奉奉レ尋 昔年人王八十二代当テ二後鳥羽院ノ御宇ニ一建久七丙辰年仲夏中旬 当所ノ城主椎名安芸守連高(尊)ノ御草創也(以下略)
この椎名安芸守については、光町の郷土史家故本橋正三郎氏が、「椎名氏は千葉介三代常兼の六男胤光(椎名六郎と称した)を祖とし、その子孫が、匝瑳郡内の各地を領した。
広済寺開基の年代が後鳥羽院の御代とあるが、開山石屋(せきおく)は「応永三十年(一四二三)に示寂」と『日本名僧伝』にあるから(中略)、これは縁起を書いた当時の誤りであろうか。建久頃に椎名安芸守がいたとすると、時代は初祖の胤忠に当たり、石屋の開山を正しいとすると、時代は応永であるから、安芸守は初祖より五、六代後の人であろうかと思う」といっている(『匝瑳郡と椎名氏族』)。
この塚は、後世に他のほとんどの城主がそうであったのと同様、帰農してこの地に移った一族のものであるか、またその子孫の誰かが、氏祖である安芸守の霊を祀ったものであるのかもしれない。