徳川幕政下の統治者
当地一円が千田庄と呼ばれた時代の支配者については、すでに通史編に述べているので、ここでは重複を避ける。
徳川氏の関東入封とともに、船越は保科正光の多古藩領域に属し、続いて土方雄久・土井利勝・石川忠総の各氏によって佐倉藩領として支配された。
石川氏が寛永十一年(一六三四)七月に佐倉から近江国(滋賀県)膳所へ移ると、翌同十二年(一六三五)十一月から再び多古藩領となり、松平勝義が駿河国(静岡県)から移って多古を居所とした。次の勝易は寛文十年(一六七〇)十二月に弟小左衛門勝光と半十郎勝郷に五百石ずつを与えて分家させるが、このときから船越の一部が分家半十郎勝郷の知行地となった。
多古藩主松平氏(本家)は明治になると本姓の久松に復し、久松勝慈は多古藩知事から初代多古村・町長となるが、これより以前の嘉永四年(一八五一)幕府より預けられた囚人に逃亡されたことのため、多古町域に五カ村だけを残して、陸奥国磐城(福島県)へ国替えとなり、このときから多古藩領は小笠原・松浦の両旗本の相給となって、船越は分家松平氏を含めて旗本三家の知行地となる。
以下徳川時代の支配者について述べるが、佐倉藩領時代では大炊堤(おおいづつみ)を造った土井家のみとし、多古藩については、通史編および地域史編多古の項にゆずり、ここでは松平分家と嘉永以後この地を知行地とした小笠原・松浦の各旗本家について記すこととする。
土井氏 同家は三河国(愛知県)碧海郡土居村に住んで土井を姓とした。利昌の代から徳川家康に仕え、その子利勝は天正七年(一五七九)七歳のとき秀忠の守役に付き、二百俵の手当を受ける。
慶長五年(一六〇〇)の上杉攻めに際して上田城の真田昌幸攻略に秀忠勢が当たったとき、よくこれを補佐し、同七年に下総国小見川一万石の領主となった。
同十五年(一六一〇)には佐倉へ移されて三万二千四百石となり、翌年から佐倉城の築城を始めて七年後に完成させている。
大坂冬の陣には酒井・本多とともに活躍してその後たびたび加増を受け、寛永二年(一六二五)、十四万二千石となり、下総国内の香取・埴生・印旛・匝瑳・相馬・海上各郡のほか、上総・常陸・近江国で六郡内の地を所領とした。
この時代に大炊堤を造ったのであろうが、寛永十年(一六三三)に十六万石となって古河城(茨城県)へ移され、後には大老となった。正保元年(一六四四)七月七十二歳で没した。
松平氏本家 松平氏の系譜については、すでに述べられているので、同家の船越における貢租の様子についてのみを記すことにするが、多古藩は嘉永四年(一八五一)の国替えに当たって年貢関係文書を各村から引きあげているため、関係資料に乏しい。
次に寛文十二年(一六七二)の『村高明細』と、『年貢皆済目録』(茂原市内にある旧多古藩領の名主が書き残した写文、年月不明)を載せる。
村高明細
下総国香取郡船越村
一高四百六拾弐石三斗四合 本田畑辻
高九拾三石九斗七升三合 古新田
高弐百七拾九石八斗五升七合 新田
高拾七石五斗 辰新田
〆八百五拾三石六斗三升四合
反別合百九町四反六畝廿九歩
内八拾八町五反四畝廿弐歩 田方
分米七百六拾石五斗弐合
弐拾町九反弐畝七歩 畑方
分米九拾三石壱斗九升
此訳
上田拾壱町壱畝拾四歩 十五
分米百六拾五石弐斗弐升
中田拾町五反壱畝弐歩 十二
分米百弐拾六石壱斗弐升八合
下田六拾四町五反弐畝六歩 七
分米四百五拾壱石六斗五升四合
下田弐町五反歩 七
分米拾七石五斗
上畑壱町九反六畝弐歩 九
分米拾七石六斗四升六合
中畑弐町七反七畝八歩 六
分米拾六石六斗三升六合
下畑拾四町七反壱畝五歩 三
分米四拾四石壱斗三升五合
屋鋪壱町四反七畝廿弐歩 十
分米拾四石七斗七升三合
寛文十二壬子年(一六七二)九月
菊地治左衛門
山崎与市右衛門
芝高安太夫
村田三郎左衛門
外除
一、屋敷七畝拾四歩 西正寺
内屋敷畑
一、同弐畝廿五歩 同寺
同断
一、屋敷弐畝拾弐歩 同寺
一、同弐畝廿八歩 慈眼寺
内屋敷畑
一、同四畝六歩 同寺
一、同弐畝歩 天王
一、同壱反歩 大立寺
宮谷 西正寺抱畑
一、中畑六畝拾六歩 宮免
一、壱畝拾弐歩 蔵屋敷
年貢皆済目録
船越村
一、高四百六拾弐石三斗四合
内弐石四斗四升七合 定式引
有高四百五拾九石八斗五升七合
取米弐百弐拾石七斗三升一合四勺
取四ツ八分
一、高九拾三石九斗七升三合 古新田
取米三拾七石五斗八升九合弐勺
取四ツ
一、高弐百七拾九石八斗五升七合 新田
内八石七斗八升一合 定引
三ツ五分
有高弐百七拾壱石七升六合
取米九拾四石八斗四升六合六勺
一、高拾七石五斗 辰新田
取米四石弐斗 弐ツ二分
取米四口合三百五拾七石三斗九升七合弐勺
一、米千弐拾壱俵五升三合九勺 本米
一、米弐拾七俵弐斗三升九合三勺 口米
合米千四拾八俵弐斗九升三合弐勺
一、永百四拾四文 小物成納
一、米百拾壱俵九升壱合 定引
内米八拾六俵 水腐場永引
米拾五俵 名主給米
米壱升七合五勺 柳谷砂留
米弐斗壱升 胡麻代米
米壱斗五升 納人扶持
米壱升三合 牛房代米
米九俵 大豆拾八俵代米
米 御夫人拾壱人
〆高八百五拾三石六斗三升四合
このようにあり、改めていうまでもないが、合計反別は百九町四反六畝二九歩で、総石高は八五三石六斗三升四合となっている。
松平氏分家 多古藩主松平勝義の六男半十郎勝郷が、五百石の旗本となって分家したのが最初である。
勝郷は万治元年(一六五八)七月に十二歳で四代将軍家綱の中奥小姓として仕え、四百俵の禄高を受けていたが、寛文十年(一六七〇)十二月、中奥番士のときに父の遺領上総国武射郡・下総国香取郡の二郡内で五百石を分けられて旗本となり、このときから殿部田(芝山町)・御所台と船越の一部を知行地とした。後に書院番を勤めてから、正徳五年(一七一五)八月六十九歳で没した。
二代を継いだ勝央(なか)は小野次郎右衛門忠於の二男で、妻は川口茂右衛門平宗の娘で松平氏に養われた。実家は代々小野一刀流によってその名を知られ、勝央も、宝永七年(一七一〇)四月十一日の御前試合には実父の相手をつとめるほどの腕前であったという。
三代勝友も丹羽氏から入った婿養子で、八代将軍吉宗の小姓組などを勤めた。
その後、勝方(みち)、勝美(み)、勝久(熊三郎)と続き、明治維新時の当主は勝光(斧七郎)であったが、以後は旧領の船越に居住した。
松平氏分家の船越における年貢の内容は次のとおりで、総石高は八十八石六斗一升三合であった。
知行所上納高物成取調書
松平斧七郎
下総国香取郡之内
船越村
一、高八拾八石六斗壱升三合
内四拾石弐斗壱升七合 新田込高
拾ケ年平均
此物成米弐拾四石壱斗弐升弐合
内米壱俵弐斗 定式渡物引
残而米弐拾三石五斗弐升弐合
外
米八斗三升壱合三勺 口米
米三石三斗弐升壱合七勺 延米
此米数上納高
米拾三石八斗三升七合五勺
此代金
但知行所三ケ村共相場弐斗弐升替
右之通御座候以上
慶応四年二月十六日
松浦氏 総高千三百石の旗本で、平戸城主(六万千七百石、長崎県)の分家である。
嘉永四年(一八五一)に多古藩が国替えになった後、後述の小笠原氏とともに旧多古藩領のうち、三百三十九石あまりを知行した。
船越と同じくその知行地としたのが、水戸の多古藩領であったことから、家系などについては、地域史編水戸の項に記してあるので、それを参照されたい。
松浦家の年貢関係についての資料がなく、内容は不明である。
小笠原氏 小笠原氏については、松浦氏と同じく多古藩領内の五一四石ほどを知行地としたことと、旗本として最後の当主の名が鎚太郎であることは、『旧高旧領取調帳』によって知り得たが、その他詳細については不明である。
『寛政重修諸家譜』に載せられてあることから見て、慶長十七年(一六一二)武蔵国本庄城主から下総国葛飾郡に所領を移されて古河城主(二万石)となった左衛門佐信之の二男に三郎右衛門信政があり、家光に仕えた書院番士で、寛永十年(一六三三)、二月に武蔵国足立郡のうちで七百石を知行しているが、この系から出た子孫の一人ではないかと思われる。鎚太郎からさかのぼっての系譜もなく確証があるわけではないが、数多い小笠原氏族の中で、当地方に知行地を持つことに最も適した内容が整っているからである。
年貢関係についても、その家系と同様、資料が見当たらないためここに記すことはできない。