境内社の聖真子社は、もとは熊野大神本殿の左隣にあったが、社殿が老朽化したことにより、昭和三十三年、その祭神天忍穂耳命は熊野大神に合祀された。
現在の熊野大神社殿は拝殿の奥にあり、亜鉛葺きの建物はきれいに彩色されていて、正面に掲げられた額には「熊野三社宮・聖真子宮」と記されている。
本殿の右側にある亜鉛葺朱塗りの小社は、安産・子育ての神として知られる子安社で、文化六年(一八〇九)当時この地を知行地としていた松平栄之丞(勝美)が創建したものであるという。
このほか境内には幾つかの石宮があって、それぞれ次のように刻まれている。
本殿裏にある高さ一メートル余の石柱に「天照皇太神 文化十酉年(一八一三)霜月吉旦 神明連小池村社玄番 当村記川仁左衛門 石井恒右衛門 石井京四郎 木川幸蔵 幸嶌豊蔵 霞丹宮 木川善蔵 木川惣七 木川幸八 宇井宮治木川良助 木川留治良」。
これに並んだ一メートル余の板石に「八幡大神疱瘡守護 床浦大神 明治四十二年社掌紀川兵庫 世話人木川幸左衛門 霞安太郎 幸島清 桜井寅之助」。
拝殿前の一メートル余の石柱には「聖徳太子講 文化十二乙亥(一八一五)二月十五日 諸工人講中 舟越村大工講中」。
参道坂の中腹にある五〇センチほどの石柱に「稲荷大明神 昭和三十四年三月建之 幸島豊吉」とある。
奉献物は次のとおりである。
拝殿前に石燈籠があって、「奉献御神燈 享和元辛酉年(一八〇一)六月吉祥日 木川氏」。これに前後して建っている石燈籠一対に「奉納 明治四十二年九月 当村幸島仁兵衛」。
参道入口に手洗石があり、「奉納 両社氏子 寛政 甲寅年(一七九四)ヨリ文化十一甲戌年(一八一四)迠伊勢西国同行二十人此内寺田二人」と、このように刻まれている。
丘上にある本殿までは、中間に二カ所の踊り場の設けられた石段が続き、入口の石段には「昭和三十四年三月吉日」の刻字がある。
鳥居も三カ所にあって、下段と中段が石造で上段のものは木製である。下段の鳥居に、「昭和五十五年六月吉日 勝又 徳司建之」とあり、掲げられた額には「丸山神社」と記されている。