この妙立寺について明治の『社寺明細帳』は
千葉県管下下総国香取郡東條村船越字堂島
日蓮宗 妙光寺末 妙立寺
一、本尊 釈迦如来
一、由緒 元禄二年(一六八九)創立ノ由古老ノ口碑ニ存ス
一、堂宇間数 間口弐間 奥行弐間
一、庵室間数 間口六間 奥行四間
一、境内坪数 百四拾三坪
一、境外所有地 (省略)
一、檀徒人員 百弐拾四人
このように記しているが、『日蓮宗寺院大鑑』によると、「文明十二(一四八〇)年の創立。開山正円院日立。住職は潮師法縁。(大観には永仁五年〈一二九七〉一月十五日の創立、開山日朝とある)」として、旧本寺は中山法華経寺であることが載せられている。
この寺も無住の時代が長かったためか、寺伝については資料も散失して不明であり、伝承だけが残されている。それによると、島・水戸・船越三カ村の村境い付近の土中から本尊の釈迦像が出土したことからその地を釈迦台というようになったという。
また、現在の島地域内の字釈迦台に妙立寺釈迦堂が建てられていたが、あるとき島に悪病が流行したことをこの堂の祟りであるとして取りこわし、それを船越に移して再建したともいう。
とくに幕末から明治にかけては「子育釈尊」として多くの参詣者を集め、堂内に掲げられている絵馬には東京方面からの奉納者名もあり、釈迦堂天井に描かれた絵には繁栄時代の名残りが見られる。
この子育釈尊の霊験は現在にも引き継がれ、幼児の夜泣き・虫封じのためとして、符札を受けに来る人たちも多い。
その後に無住の時代を経て兼務住職彦坂玄孝師を迎えた妙立寺は、庵室も荒れたため近年それを取りこわし、青年館が建てられた。
釈迦堂だけが残されているが、その回廊の擬宝珠に「下総国香取郡舟越村正円山妙立寺智芸代 御宝前 当所勝又庄左衛門 飴屋吉五郎 勝又初右衛門 佐瀬平次兵衛 嘉永三庚戌年(一八五〇)十一月日 願主中村高田清次右衛門 当所山邊吉左衛門 鍋屋重蔵 勝又甚五右衛門」と刻まれている。