他の奉献物には、石燈籠に「奉納御宝前大正六年十月 村宇井仙蔵」、石造手洗いに「御宝前明治十九年戌一月吉日 各邨信徒 子中 正円山三十一世日海代再興之 当村信徒中並総代人山邊武左衛門 宇井利平次 椎名七郎左衛門 鈴木金左衛門 多古川口幸吉鐫」。
題目塔に「南無妙法蓮華経 高祖大士六百遠忌御報恩奉誦久遠偈五万巻 奉唱有題三千五百部 南無子育釈尊安置 元治元年甲子(一八六四)十月建之 正円山二十九世順孝代」、直径三六センチほどの鰐口に「本願主佐瀬権之丞母並ニ喜捨施入面々現安后善 奉納明治十三辰二月十五日正円山三十世日正代 子育釈尊御宝前」とある。
釈迦堂の右手に石塔場があって、そのなかでもひときわ高い一・三メートルほどの石塔には、表に「天隨院利山貞翁居士 宇井佐富貞翁墓 文化十四丁丑(一八一七)十一月二十三日 無堂飛鳥園一叟はる人 辞世・われ仏雪にも仏あるものを(一句不明)筆弟中 文化十三丙子四月八日立之」とあり、願主舟越村のほか現在の八日市場・佐原二市と、野栄・光・栗源・芝山・横芝町から蓮沼村にかけて四一カ村の名が刻まれている。
そして裏面には履歴が記されているが、損傷のため全文が読み取れないので次にその要点のみを記す。
それによれば、この宇井佐富貞翁は「通称を治喜といい、その祖先は和歌山県から移住し、百数十年間農業を営んできた。治喜は、医師としてのかたわら家塾を開いて子弟の教育に当たり、俳句を趣味としていた。
このころ芝山から多古にかけての一帯には、芭焦十哲の一人といわれた杉山杉風を祖とする飛鳥園社中が隆盛で、治喜もその社中に入り、寛政十三年(一八〇一)に二世飛鳥園寂阿一叟であった御所台村の並木七郎右衛門から嗣号を継ぎ、三世飛鳥園貞翁一叟となった」という。
字亥ノ森二二一五番の共同墓地にも高さ一メートル余の自然石の墓碑があって、「天隨院利山貞翁居士飛鳥園一叟はる人墓」とあり、句が刻まれているが他の刻字は判読できなかった。