明治の『社寺明細帳』は、そのころの様子を次のように記している。
千葉県管下下総国香取郡東條村船越字堂島
日蓮宗 誕生寺末 大立寺
一、本尊 三宝祖師
一、由緒 天文廿三甲寅年(一五五四)二月創立
一、堂宇間数 間口七間三尺 奥行五間三尺
一、庵室間数 間口四間 奥行六間
一、境内坪数 三百九坪
一、境外所有地 (省略)
一、檀徒人員 四百五拾四人
この由緒については、寺にわずかに伝えられる文書の一節に、後年になってから書かれたと思われる「追記」があり、
創立者 領主千葉氏胤仲公三男法性房ト云フ、始メ真言宗ナリ、志摩村妙光寺開祖日朝聖人ト俗姓ノ兄弟故、法ヲ論ジテ帰伏ス、号ヲ日意ト改メ、壱宇ヲ建立シ法性山ト号シ、地所ハ領主ヨリ賜之、宝永四丁亥(一七〇七)九月本山誕生寺歴世大中院日孝聖人代末寺ト成ル
とあるが、この胤仲が飯櫃城主山室氏に敗れて自害したという時期について、『山室譜伝記』には弘治元年(一五五五)、『多胡由来記』には天正十三年(一五八五)とし、高根の親社権現にある碑文はその没年を慶長十七年(一六一二)と記している。
また日朝については、弘安年中(一二七八~八八)多古妙光寺を開基して弘安六年(一二八三)に没したことが同寺縁起にあり、唐竹(南中)妙光寺はその寺記に貞治三年(一三六四)日朝によって建立されたことと、その没年を応安六年(一三七三)と記している(日朝については通史編中世「多古妙光寺の成立と一円法華」の項参照)。
いずれにせよ、胤仲の三男法性坊(後の日意)が、日朝と「俗姓ノ兄弟故、法ヲ論ジテ帰伏ス」とする右の追記は、胤仲と日朝両者間の最も近い没年をとってみたとき、そこに一八二年ものひらきがあることからしても、十分に注意して見る必要がある。
多くの文書・什宝類は、昭和七年三月三十一日夜類焼による火災のため伽藍とともに焼失し、より深く解明されねばならない内容をもつ当寺の由緒縁起、および周辺の事情を探るうえで、大きな障害を残した。
その後檀家の努力によって同九年一月三日から堂宇の再建に着手したが、一日も降雨に妨げられることなく工事は進み、同年三月二十八日に落成開堂供養が行われた。