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寺域内の石塔・石碑

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 境内にある塔碑の主なものに、次のようなものがある。
 
 題目塔。三段の礎石の上に一・三メートル余の石塔が立ち、「南無妙法蓮華経 文久三癸亥年(一八六三)十月日建之佐瀬一門先祖代々家内安全檀方中施財之面々現安後善 為修善院法達日行信士 善達院妙修日解信女菩提 高祖大菩薩六百遠忌御報恩自他倶安同帰常寂」
 題目塔。高さ約一メートルあり、「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩奉勧唱題目一万部奉擬五百遠忌報恩 天明元辛丑年(一七八一)十月十三日 祖中一結 法性山十二世妙寿院」
 鬼子母神塔。高さ約九〇センチ、「鬼形鬼子母尊神御宝前 南無妙法蓮華経 奉読誦久遠偈一千部成就 弘化四年丁未(一八四七)九月 供養砌講中一結謹立之」
 大黒塔。高さ六三センチほどで、「奉誦久遠偈一万巻成就攸 南無妙法蓮華経 南無大黒尊天神 当応今世得現果報法性山十四世日旋代 甲子講造立 享和四年甲子(一八〇四)二月四日」
 鬼子母神塔。高さ七二センチ、「若悩乱者頭破七分 南無妙法蓮華経 鬼子母尊神 奉読誦久遠偈壱千五百部 文久元辛酉年(一八六一)九月日 堂谷講中」とそれぞれ刻まれている。
 歴代碑。高さは約九〇センチで、「当寺開基日意上人 二世日現 三世日正 四世日惺 五世日運 六世日瑞 七世日要 八世日長 九世日幽 十世日良 十一世日宝 十二世日泰 十三世日深」とあるが、その後歴代は日忠・日俊・日方・日奉・日苗・日聴・日量・日基・日浤・日芳・日照・日量・玄角・日健・亮延・日雄・日音と続き、昭和二十二年五月以降は、現住職の三十一世澄心院日豊(彦坂玄孝)師によってその法燈が守り継がれている。
 句碑。建物裏手の小高い所に、池を前にして高さ八七センチの自然石がある。表に「ほろ/\と山吹ちる耶(や)滝の音 はせ〓」、裏に「翁の道の与て広く俗に遊人と俗にそまらす ぬるみし水の蛭よりしもせほりの外の神も尊む・貞翁、ちるものと思へハ花になみだか那・百川」と刻まれている。
 
 この碑は天保六乙未年(一八三五)二月に一吸斉百川と号した山辺八郎左衛門が建てたものであるが、百川はこれに「一代之記」と題する一文を残していて、自からの生い立ちをおよそ次のように記している。「宝暦九年(一七五九)船越に生まれ、千太郎と呼ばれた。九歳から手習いを始め、明和八年(一七七一)江戸の芝口源助町さかいや甚兵衛へ奉公、安永四年(一七七五)に帰郷して農業に従事、農閑期には宇井佐富(貞翁)の教えをうけた。
 二十三、四歳のころから俳諧を志して、御所台の飛鳥園一叟宗匠の門人となり、百川の雅号を受けた。後に師であった宇井佐富貞翁が飛鳥園三世を継いでからは、貞翁の補佐をつとめる高弟となった。天保六年七十七歳の年、大立寺の境内にかねてから望んでいた塚を築き句碑を建てた」そして、文中の末尾に「と石にちりばめて其侭山吹塚と呼ぶ、名も石も千歳に朽ざらめと生涯の志願出情たり」と記し、辞世の「けふは今日 翌日ハあの世の 彼岸かな」で結んでいる。
 なお、山邊家は代々学問を尊ぶ家柄で「八郎左衛門」をその家号としているが、百川の孫の八郎左衛門は、明治二年から四年間匝瑳郡椿村(八日市場市)にある菅治兵衛の私塾に学んだ後、同六年から自宅で塾を開いて近隣子弟の指導に当たった。
 公立学校設置後も戸上(とがみ)小学校―東條小学校で大正四年まで教鞭をとり、現在の多古第三小学校の基礎を築いている。
 これまでは塔碑を見てきたが、このほか昭和十八年に軍事資材原料として供出された梵鐘があって、記録に残された刻銘を見ると次のようになっている。
 
     大日本國總之下州香取郡千田之庄水戸郷船越村大立寺
   鐘銘並序                                 十五代日俊
法性山者開基曰日意乃以弘治元年(一五五五)創立而三世祖曰日正方此之時鑄鐘 (久)之破裂而癸丑之春檀信勝又氏与小川氏某發志願寺之檀越及處々勧老士女以彼檀功前住持深事再圖造梵鐘一口未果漸歴於三代今玆己巳之冬重募衆縁遂成且大勤銘於鐘者釋儒通規故勝又氏与小川氏相共來請予不文故寫於草山和尚之序銘以塞其責耳
蓋聞妙法難解以蓮華况之蓮華則有施開廢之儀也蓮華之外亦宜比者惟鐘也已何者爲鐘施模乃爲實施權也模開鐘現乃開權顕實也模廢鐘成乃廢權立實也擬其本迹亦爾奚止譬喩而己哉圓空爲鐘空即空也鐘即假也聲從其中出豈非中道乎鐘當體即三諦之〓也如此東坡所謂聲從無有出遍滿無邊空者也矣和尚叙鐘之爲徳而作銘云 法界爲體 虚空爲聲 寂然不動撃之則鳴 法輪時轉長夜夢驚 感應惟響妙果自成 如是大器不知所名
   于時文化九年壬申(一八一二)之春壬正月穀日
                                        十五代豊心院日俊謹書
                                  武江神田之住 粉川市正藤原国信作